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(回答先: ユダヤ人がこれほどに皇室を賞賛するのは民族派を扇動し利用し破滅させてぼろ儲けするためでは? 投稿者 愛国心を主張する者ほど売国奴 日時 2006 年 5 月 10 日 23:29:32)
応答感謝。「爆弾三勇士」および、「天皇はん」と「天皇陛下」についての私見。
おっしゃるとおり、イスラエルで極右政党を支えている大きな勢力として、社会の中で「下積み」というか「下敷き」にされているセファラディ・ユダヤ人たちがあることは以前から知っていました。
この話を聞いて最初に思い出したのが「爆弾(肉弾)三勇士」です。1932年2月の第一次上海事変で、被差別部落出身の3名(内の2名という説もあるようです)が、「天皇陛下バンザイ!」を叫びながら自ら爆弾を抱え突撃して命を落とした(もっともこの話にはいくつかのバージョンがあるようですが)、というあれです。
戦後では、部落民だったから特攻隊にされた、部落民を戦争に駆りだすための演出だった、という声が強いようです。しかし、私は案外とこれは自ら志願した可能性があるのではないか、と思っています。ひどい差別を受けているがゆえに、逆に最も激しい天皇神話の民族主義(たとえそれが虚構であろうとも)を抱えて、命を捨てることによって自らの存在感と自尊心を最も激しく実感できる、そのような心情もあったのではないか、と感じます。
パレスチナで、人間としての尊厳きりぎりの状態で生きるハマスの若者が自らを粉々にふっ飛ばしてでも得たいと願う、自らに対する強烈な存在感と自尊心は、やはりイスラエルのセファラディ・ユダヤ人の若者たちに共通するものかもしれません。
写真やTVに映る下っ端のイスラエル軍兵士の顔には明らかにセファラディと思える者が多く、またこちらのテレビでサッカーの試合を見ていると、イスラエルの選手にはどう見ても欧州系では無い顔が圧倒的に多いようです。
どれほどに痛めつけられていても押さえつけられていても、特に若い人が、利害を越えて自分の生と死に意味を見出したい、と願うのは何民族でも共通であり(今の日本の若者はどうか知りませんが)、本来なら最も血のつながりの濃いパレスチナ人と殺し合いを演じるこれらのセファラディ・ユダヤ人たちの姿には、痛々しさすら感じます。
しかしそれだけに、いったんその憎しみの対象がアシュケナジの支配者に向かったときには、その爆発はもはや止めようがなくなるでしょうね。いつかは、彼らの本来の同胞ともいえるパレスチナのイスラム教徒たちと抱き合える日が来るのだろう、と信じたいものです。
ところで、天皇の話が出たついでにですが、私はしばらく京都にいたせいで、京都の町衆に残る「天皇はん」のイメージが何となく分かります。関西弁の中に「〜しはる」という一種の敬語があるのですが、京都人は「天皇はんがおしっこしはった」と言うと同時に「犬がおしっこしはった」と犬の動作にも敬語をつけます。天皇と犬を同列に扱うとは何事か!という話ですが、しかし逆に言えばそれほど江戸時代までの天皇は市民に身近な存在だったともいえます。
ただ身近といっても、もちろん自分たちとは違う、そしてそれは権力者としてでも「国民統合の象徴」としてでもなく、自分たちの求める雅(みやび)の象徴だったように感じます。それは雛人形やカルタなどを通して普段の生活とは異なる次元の美を求める人々にとって、いつまでも身近にいてひっそりと御所に住んでいてほしい人だったのではないのか、そんな気がします。
南北朝以来政治権力を奪われて政争の道具としてのみ扱われ、そして徳川時代にはそれもなくなり、100年、200年経つうちに、貴族たちは着物を質屋に入れて蚊帳を着るほどに落ちぶれ、天皇家も豊かな町衆に比べると決して楽な生活ではなかったはずです。そして、生活に余裕を持てるようになった上層から下層までの町衆の求める美意識は必然的に、すでに権力者としての威圧を失い、暴力ではなく非暴力の、権威ではなく雅の象徴として、はるか昔の公家文化を受け入れるようになったように感じます。
はるかに昔は暴力と権威の象徴だったものが「時間とお天道様」に清められて、人々の美を求める気持ちの中に自然な形で入っていったのでしょう。キリストさんは良い事を言います。「人はパンのみによりて生きるにあらず」。やはり心が必要なのですね。それが普段の生活には無い美しさへのあこがれになるときもあれば、生死を越えての強烈な存在感になるときもあるでしょうが。
それを京都の町衆から奪い取ったのが明治維新であり、孝明天皇暗殺、そして大室とかいう長州の馬の骨を「天皇陛下」に据えての強引な国家改造で、そこには欧米勢力の裏にいる国際ユダヤ資本の力が働いたことは確実でしょう。大正天皇や昭和天皇の誕生経緯にも多くの疑問があると聞きますが、いずれにせよ欧州風の軍服に身を固める「天皇陛下」には、もはや雅の象徴としての「天皇はん」の姿はどこにもありません。
それは金メッキの王冠とガラス玉の偽ダイヤをギラギラ光らせ、人を死に向かわせる醜い暴力と権力の象徴です。それが戦争に負けたとたんに手下に腹を切らせて自分は「平和の象徴」だって! そして現天皇は隠れカトリック(「隠れ」じゃなくて「堂々と」かな?)、皇太子夫妻は隠れプロテスタント。もはや天皇家には京都に戻る資格はありません。
西欧諸国にも王室はありますが、現在でも引き続き「権力の象徴」であり、実際にその多くがユダヤ資本とつながる大資本家として機能しています。それがオプス・デイ(ローマ)や英国国教会などと結び付いて、欧州の権力構造の「雲の上」を形作る一部となっています。彼らは民族や言語や宗教などの区別とは無縁の世界に住んでおり、王家、大貴族の「青い血」の網を欧州世界にかぶせています。そこに日本の雅(みやび)に似た概念は存在しません。
雅だの美しさだの非暴力だのと言うと、何だか弱々しいイメージに聞こえるでしょうが、しかし私はこの「人間の心」が本質的に備えている強さを信じています。それは水のようなしたたかな強さです。
「天皇はん」が戻ることはもはや永久に無いのでしょう。しかし日本の人には、どんな状況になっても、心の中に「雅と非暴力の象徴」を持ち続けてもらいたいと願っています。そしてそれが明治以降続く皇室の利用に対する最大の抵抗になると思います。