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(回答先: ただの庶民だが私にも言わせてほしい 日本では食糧安保さえ忘れ去られた 【SENKI】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 29 日 06:12:13)
http://amodoki.hp.infoseek.co.jp/etc/jyo.html
(貼り付け始め)
過去の農法は殺し農法
百姓は、太陽と土と空気と水さえあれば植物は育つということを、何時の間にか忘れてしまったようです。そして「虫が虫の餌を、菌は菌の餌を食べるのは当たり前だ」ということを見落としています。
自然状態で虫が緑を食べ尽くすことはありません。菌が人や動植物を食べ尽くすこともありません。虫(菌)は「虫(菌)の餌」以外のものは食べない(られない)からです。
自然の仕組みを忘れ、人は害虫(菌)という幻に怯え、それらを殺し「虫の餌」を横取りして食べることが、異常であると気付かずに平気で食べるようになってしまいました。科学的との美名?のもとに、何時の間にか、当たり前のことを当たり前と思わなくなってしまったのです。
土に「有機物=有機炭素化合物」が不足すれば作物は生育不良になることをプロの農業者なら誰でも知っています。でも、有機物を必要としているのは土壌中の微生物であり植物ではないということは、知っていても意識されていません。
その証拠に、有機物(炭素)を最も適した状態で土壌中の微生物に与えていません。適した与え方をすれば、どのような仕組みで何が起こり、人々の健康や地球環境に、どのような影響を与えるか、原点に返って見つめなおしてみる必要があるのではないでしょうか。
何もいまさら、改めて「炭素循環」と言わなくても、自然の野山や農業現場では、昔から当たり前に行われていることです。しかし、意識されていませんから非常に無駄が多く、炭素不足のため養分循環が円滑に行われていません。
それを補おうと施肥に頼り、養分バランスを崩し「人の食物」を作る筈が、実は「虫の餌」を作っているのが、堆肥・天然農薬の有機農法や化学肥料・化学農薬の慣行農法であり、これは「施肥・殺し農法」です。
そして、過去の自然農法(自然の猿真似農法や一切の資材を否定し過度の浄化を行う農法)も、旧概念から完全に脱却しているとは言えません(理論の欠如が原因)。
虫がどのような物を食べるか理解すれば、虫に食べられない作物(人の食物)を作ることはそれほど難しいことではありません。寧ろ非常に簡単で「何故こんな簡単なことに、今迄気付かなかったのだろう」というのが実践者の感想です。
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自然は人に何も要求しない
これまた、当たり前のことですが無施肥と言っても、植物が育つのに必要な養分や量に違いがあるわけではありません。実際に無施肥・無農薬で作物を作っている者は多数います。でも、詳しい養分供給の仕組みまでは余り知られていないのが実情でしょう。
理論的裏付けの欠如から手探り状態で多くの試行錯誤を繰り返し、安定した生産体制に至るまで遠回りをし、多くの労力と時間を費やしています。そして、多種多様な農法が提唱され、また実践されています。農法は農家の数だけあるとも言えますが植物が育つ基本的な仕組みは一つ。その仕組みに沿わなかった時、作物は虫の餌となります。
虫の餌か人の食物かは、養分の供給の仕方(バランスを保てるかどうか)で決まり、理論さえ分かれば無駄な苦労をすることはありません。単純に考えて自然状態で虫に食われない植物があるのですから、それと同じ状態(仕組み)を再現すればよいわけです。
同じと言っても、何も全てを同じにする必要はありません。時計の針は逆には回りません。文明人が今更、サルや未開人の真似をしても始りません。最も基本的、あまりにも当たり前過ぎて誰も気付かなかった「炭素」の循環の仕組みを同じにすればよいだけです。
要は自然の仕組みを知り、その仕組みを最大限に活かし作物を生かすこと。仕組みさえ活かせれば資材を選びません。化学合成されたものであろうと天然資材であろうと何でも使いこなせます。但し化学、天然に関わらず「肥料」と「殺し」は御法度です。
「肥」は人の勝手な思いであり、自然の要求ではありません。いったい、「肥」という概念は何時の頃からあるのでしょう。人が耕作を始めた千、万年?の昔からでしょうか。
自然は人に何も要求しません。人が「肥やす」という傲慢な思いを捨て、真摯に自然と向き合った時、初めて自然の真(本来)の力(意志)が見えてきます。自然の意志と人の思いが合致した時、自然は人に全てを与えます。
(貼り付け終わり)
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