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(回答先: 1995年金融不安の中で郵貯シフトが起きている。郵貯の残高は二百兆円を超え、個人の預貯金の中で三分の一を占める。 投稿者 hou 日時 2005 年 8 月 06 日 22:44:59)
「金融社会主義」の罪と罰――システム透明化へ行革急務(中外時評)1996/01/21, 日本経済新聞 朝刊, 11ページ, , 1641文字
日本人の貯蓄は千百兆円もある。しかし、残念ながらその貯蓄は生かしきれていない。日本の金融システムは日本経済のアキレスけんだといわれる。なぜなのか。ついこの間まで日本は最大の金融大国と呼ばれたのではなかったか。
ひとつの答えはこうだ。冷戦後、世界経済は市場の時代に変ぼうを遂げた。ところが、日本の金融システムだけはかたくなにこれまでの流儀を守った。「金融社会主義」という流儀である。グローバル経済の激流のなかで、金融社会主義でカジを取れるはずはなかった。その弊害はあちこちに表れた。
不良債権問題の象徴とされた住宅金融専門会社(住専)問題は、その見本のようなものである。政府の住専処理案は貸し手のなかで一番ひよわな農林系金融機関を救済するために、主要銀行など母体金融機関と国民にツケを負わせる方式である。
最大の貸し手である農林系は債権額の一割以下しか負担しないのに、母体金融機関は債権全額を放棄するうえに、二次損失でも負担を求められている。母体金融機関が追加負担に応じると、株主代表訴訟を受けるのは目にみえている。
強いものが弱いものを助けるといえば聞こえはいい。だが、この救済方式を続ければ、金融システムの健全化どころか、金融システムのなかで不健全な部分を温存し健全な部分を不健全化させかねない。金融システム維持に名を借りた金融社会主義は、日本の金融システムを疲弊させる。日本の銀行は国際競争力は失う。
この流儀が通用したのは日本の金融市場でもたれ合っていた時代だけだ。グローバル市場で日本流が通用しないことをまざまざと見せつけられたのは大和銀行事件だった。巨額損失の通告遅れは大蔵省や大和銀行の国際ルール違反だが、問題は内輪だけで処理することに何の疑問も感じなかった点にある。
金融のグローバル化が急ピッチで進むなかでは、世界共通のルールで勝負するしかない。「日本型金融システム」なるものが生き残る余地はない。それを守ろうとすればするほど、ジャパン・プレミアムはかさ上げされる。「日本型」にこだわっているかぎり、どんな特徴ある日本の銀行も単色でみられ、上乗せ金利をのまされる。
金融社会主義は日本の津々浦々に根を張っている。郵便貯金を原資とする財政投融資システムだ。郵便貯金は個人貯蓄の三分の一を占め、財投予算は一般会計の一般歳出予算に匹敵する。民間金融機関は肥大化した郵貯と政府系金融機関の板挟みで悲鳴をあげてきた。金融不安が続けば続くほど、郵貯シフトは進み、それが金融不安の新たな芽になる。
この状態をいつまで続けるのか。金融システムをいつまで大蔵官僚の胸先三寸に任せるのか。不合理を黙って見過ごせるほど日本経済にゆとりはない。
金融社会主義を直す方法はある。まず金融行政を転換することだ。これまでの流儀の主流だった大蔵省銀行局の指導行政は全廃する。代わって大蔵省とは分離、独立した検査監督機関を設ける。それは預金保険機構であってもいい。
ここで大事なのは、指導行政を受け入れてきた銀行の対応である。大蔵省もうでをするMOF(大蔵省)担などは真っ先に廃止する。指導行政の受け皿としての業界団体の役割にも終止符を打つ。「お上」の指導に寄り掛かってきた銀行の安易な姿勢を改めることこそ肝心だ。
巨大な郵貯は分割して民営化する。財投は環境など本当に必要な政策金融だけを残す。原資は財投機関債などで市場から調達すればいい。政府系金融機関の整理、統合を進める。
もちろん、こうした金融行政改革は簡単な作業ではない。国会を中心に徹底した議論が必要だ。しかし、目にみえる改革を通じて国際ルールに合った透明な金融システムを構築しないかぎり、日本はいつかまた同じ難問に直面するだろう。
金融システムの改革をどう進めるかで、政策の対抗軸もはっきりしてくるはずだ。そして、この金融システム改革を政治、行政システム改革の突破口にすることだ。日本人が築き上げたせっかくの貯蓄を生かす道はそこにある。