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(回答先: 日本の金融商品開発能力がいかに低いか問われる問題ですね。 投稿者 hou 日時 2005 年 6 月 18 日 00:05:20)
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/gifu_mino_hida/01kakamigahara_kawasaki_sentouki07.htm
エンジンの各部にドイツの工業水準の成果を発揮した複雑な仕組みが使われたいた。
これはエンジンの一つの部分のことではなく、全体に関することです。
たとえば、逆V12気筒の一つ一つの気筒には、4個の弁がありましたが、一つ一つがそれぞれカムで動かされていました。
また、クランク軸の軸受けにも、精巧なローラーベアリングが使われていました。これによってメッサーシュミットBf109は、僅かなオイルでも焼き付くことがない、あまり暖機運転しなくてもさっと始動して飛べるなどの特徴を発揮しました。
※黒田光彦著『プロペラ飛行機の興亡』(NTT出版株式会社 1998年)P246−47参照
これらの、水準の高い構造や装置は、日本におけるエンジン生産の一般的なレベルを超えるものであり、ハ−40エンジンの量産や順調な稼働を大きく阻むものとなりました。
クランク軸のローラーベアリングについて、当時川崎航空機のエンジン担当技師であった林貞助技師は、次のように言っています。
「私は何回かドイツのエンジン工場を見た経験から、デイムラーベンツは斬新なことをやっているが日本の工作技術ではむずかしいから、むしろユンカースのエンジンのほうがいい、と意見具申した。結局デイムラーベンツを購入することになってしまったが、国産化におよんで私の危惧が適中した。
DB機の特徴であるクランク軸のローラー・ベアリングなども、その一つだった。ベアリング(軸受)のローラーの角の部分を顕微鏡写真に撮って、DBと国産のとをくらべてみたことがあった。するとドイツのは自動研磨盤か何かでやったらしく、角はきれいな二次曲線の丸味をおびていたが、日本のはベアリング工場の女子工員が手作業で角研磨をやっていたので角が立っていた。しかも角の立ち方が一個ごとにちがっていた。これではローラーに荷重がかかって弾性変形(荷重を除くともとにもどる)をしたとき、荷重のかかり方が一様でないから、きつくあたったところの金属結晶が破壊されてピッチツグをおこし、クランク軸消損の原因となった。
たしかにDBは、ドイツ的なすぐれたエンジンではあったが、わが国の一般の基礎工業技術水準からみて買うべきではなかったと思う」
※碇義朗前掲書『戦闘機「飛燕」技術開発の戦い』(光人社NF文庫 1996年)P134
日本の基礎的な技術は、そのような高度な面ではもちろん、もっと簡単な部分でも劣っている部分がいくつかありました。
たとえば、日本の飛行機は飛燕だけでなくしょっちゅうオイル漏れを起こしていました。
これは、金属パイプと金属パイプをつなぐ部分など、結合部分でオイルを密閉しておくためのゴム製のパッキングが不良なことに原因がありました。
ゴム原料が豊富でなく、合成ゴムなどの石油化学工業の技術も未熟であった日本の限界でした。
また、高分子化学工業でも遅れていた日本では、ドイツのように、今あるようなビニールで被覆した電線を使うことは一般的ではなく、電線を外側から糸や紙で巻いて、その上から塗料を塗ったものを普通に使っていました。このため電気回路の絶縁が良好ではなく、雨や熱ですぐに回路が不良に陥りました。
日本の航空機の機上無線は、ほとんどの場合使えなかったというのが常識ですが、それは、こんな単純なことにも起因していました。
それでも、1943年までは、東南アジア占領からの戦略物資の輸送もまずまずの量が達成されており、工場内部においても熟練工が比較的多くいて一定水準が維持されていた結果、素材・技術の両面において、生産はなんとか維持されていました。
ところが、1944年になると、戦局に不利によって、東南アジア占領地からの物資の輸送が滞り、良質の材料が手に入らなくなりました。さらに、前項の学徒動員で説明したように、熟練工の徴兵や工員の水増しによって、工場内に未熟練工が増加し、工場全体の技術力が低下してきます。
こうなると、一定の品質のエンジンを大量に作っていくことは、現実的に非常に困難な状況となってきたのです。
※工業水準について
工業水準というのは、その判定が難しいものです。
たとえば、戦艦大和ができたから立派なものだ、ゼロ戦が飛ばせたから立派なものだ、それは確かにそうでしょう。
しかし、明治以降、あわてて近代化を図った日本は、意外なところで多くの弱さを持っていました。
上記の説明は、その一部ですが、他にも次のような点がありました。
日本は航空機のプロペラを開発できず、戦前にライセンス生産を取得したアメリカハミルトン製の可変ピッチプロペラをずっと使っていました。
日本は機関銃・機関砲の自前開発が不得意で、ほとんどは、戦前に獲得したイギリスのビッカーズ社、アメリカのブローニング社、スイスのエリコン社などの製品のライセンス生産品を使うか、模倣品を使っていました。
※渡辺洋二著『液冷戦闘機「飛燕」』(朝日ソノラマ 1998年)P20−21
大きな戦艦やいい機体はできても、それを支えるさまざまな補助的な装備はまったく立ち遅れている、それが戦前の日本の実情でした。