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(回答先: 経済合理性、いわゆるグローバル・スタンダード=あくまでも合理性 投稿者 hou 日時 2005 年 5 月 18 日 00:12:04)
houさん レスが遅れて申し訳ありません。
ものすごくたくさん咲いていただいたのですが、結論は下の4行でしょうか。頭の回転が悪いで理解に時間がかかります。お許しください。
>これは、世界の富を握って平然として、貧民各国を見ているだけの行動なのだ。
>それらの、行動をなくすために、グローバル経済が重要なのである。
>それらには、多くの弊害を生むが、おおきな課題としては、世界の資源は有限であるという事実である。
>それらを分配する意味でも、一人勝ちの日本を見直す必要性があるのである。
「グローバル経済」という言葉の理解が、私とhouさんとの間で異なっているのかもしれません。 私の理解では、現在、国際金融資本主導で行われようとしているグローバリズムは「一人勝ち?(=異議あり、しかし本質的でないので保留)の日本を見直す」ことなく(日本はそのうちつぶれて、)「一人勝ちの合州国」ないし「一人勝ちの国際金融資本」を作ることは確実だと思われますが、その一方で「世界の有限な資源を」合理的?に配分するために、ほとんど役立ちそうもない、と思われることです。自由市場がそれ自身のみでは「世界の有限な資源を」合理的に配分するはずがない、と思っておりますので。Ref.「世界の半分が飢えるのはなぜ? シグレール教授側が子に与える飢餓の真実」ジャン-シグレール著たおかまゆみ訳ほかISBN4-7726-0313-1 もし世界が100人の村だったら など多数。所詮、自由主義経済の下で資本は自己増殖すること「しか」考え「られ」ない。現在のグローバリズムにそれ以外の立場があるのでしょうか?
心ある金融家が(がりがり亡者の金主様をなだめ、すかし、おだてて、納得される程度の利益を与えながら)運用の仕方を考えるしかないのでは? その金融屋さんが中央銀行にいようと市中のノンバンクにいようと。 医療経済のところでも議論しましたが、金融は結局末端でどこにどう使うかなのです。
企業が「メセナでいい気分になれる余裕」がなくなるほどの競争を強いるグローバリズムは人間の敵です。