★阿修羅♪ > 議論21 > 958.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 選挙は党派の対決構造となっているが、経済の学術的対決が根本ではないだろうか 投稿者 月読 日時 2005 年 9 月 11 日 13:21:49)
御三家の主流派経済学理論の壮麗な体系に挑むのは難しく見えますが、実は大穴があります。それは彼らの理論の前提に目を向けることです。
おかしな(おかしくなった)前提は色々ありますが、最も基本的なのは、彼らの理論が「資本は希少財である」と言うのを大前提にして居ることだと思います。この立場を最も鮮明に唱えて居るのはハイエクです。彼が主導したネオ自由主義は、この前提から「希少財である資本を効率的に働かせるよう、企業活動の自由を最大限確保すべし」という主張になります。サプライサイダー達の金持ち本位の手前勝手な主張を正当化するのも、この「資本こそが究極の希少財である」という、時代遅れのドグマです。
しかし現実を見ると、日本のような成熟した産業国家では、「資本は過剰であり、決して希少財ではない」のは明らかです。個人金融資産がGDPの3倍近く積み上がり、その大部分は「単なる預金」として眠って居る。それを預かった銀行は、超低金利にもかかわらず(前向きの)借り手が現れないため、その多くを殆ど金利が付かない国債購入に回して居る。
「財政破綻からアルゼンチンのようになるぞ」と言う脅かしは、日本のような「資本蓄積の過剰な国」にはお門違いです。
景気対策も年金問題も、更に財政再建も、この「日本は資本蓄積の過剰な国である」と言う前提からスタートしないと、答えは見つかりません。