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(回答先: すっきり排泄できない「労働価値」 投稿者 すみちゃん 日時 2005 年 8 月 05 日 00:39:06)
説明が悪かったと反省しています。
まず、「労働価値」は、現実的にはそのような見方も可能ですが、利潤もマイナス利潤も出さずに財の生産活動を継続できる価格ということに本義があるわけではありません。
「労働価値」なる概念を持ち出すのは、目に見える貨幣や財の内実がなにかということを明らかにする必要があると考えているからです。
資本や利潤といったものは貨幣量で表現されますが、貨幣は労働(活動)の量を反映したものでしかないのですから、どんなにリアルでとてつもない力があるとしても実体は表象でしかない貨幣を出発点にすることはできません。
貨幣が貨幣たる所以は、他者の活動力や他者の活動成果を手に入れられる機能にあります。
貨幣経済社会のなかで生きる近代人は貨幣そのものに力があると信じる「貨幣崇拝者」や守銭奴に近い貨幣観を持ちがちですが、そこを突破して人々の活動(力)(自然や他者に働きかけることやその能力)にこそ力があるという“普遍性”を捉え直す必要があると考えています。
このような立場が、近代世界を“自然的所与”を考え分析する近代会計学や近代経済学と異なる説明体系になる理由です。
生産した財は期待する価格で売れるか定かではないし売れるかどうかさえわからないものですが、活動(労働)過程で価値が既に形成されているという考え方は、近代が歴史的(期間限定的)な経済社会の在り様であるのなら、近代と異なる経済社会を考えるために極めて重要になります。
「労働価値」は生産されているが、それが市場で価格として現実化しなかったりないはずの利潤が獲得できたりする理由を明らかで近代経済社会の特殊性が浮かび上がってきます。
また、固定資本形成を通じて「労働価値」が変動(上昇)する論理は、これまでの近代史そして今後の近代史を見通すために極めて有用です。
「労働価値」の上昇は即活動(労働)力販売価格=賃金の上昇ではありません。「労働価値」の上昇が賃金の下落を招くことも多々ありました。
「労働価値」の貨幣表現は、ある歴史的断面では可能だとしても、同じ衣類を1着つくるためにどれだけのひとの活動(労働)力を要するのかという普遍的基準と同じではありません。
(賃金が下落しても、生産設備製造を含み、同じ活動時間で同じ衣類をそれまでの20%増しで生産できることも多々あります)
国民経済の「労働価値」が上昇すると(それが近代の常態)、輸出を増大させるか、賃金をアップするか、赤字財政支出を増大するか、賃金水準を変えないままで労働時間の短縮をするかしなければ、「労働価値」の上昇を活かせないデフレ不況に陥ります。
「労働価値」概念は、現実社会で経済活動をうまく行うための思考ツールではなく、現実社会の動態的論理構造を掴むためのツールです。
[すみちゃん]
「しかし、利潤もマイナス利潤も出さずに財の生産活動を継続できる価格であるとすると、理論価格あるいは定常価格と呼ぶことはできると思います。」
(あっしら)
上述でご理解いただけると思いますが、「労働価値」が固定資本減耗を含めた生産費に似た概念であることを認めながらも、経営的判断基準に近い理論価格や定常価格といった別の概念に置き換えることはできないと思っています。
[すみちゃん]
「以前に、労働価値は、
【負債+資本の部」すなわち「資産」から、事業活動に使われているわけではない有価証券類を控除したもの】
という説明を受けています。
要するに財の生産活動に支出されている稼働資本の現在価値ということになると思います。」
(あっしら)
【負債+資本の部」すなわち「資産」から、事業活動に使われているわけではない有価証券類を控除したもの】は、資本概念の説明であって、労働価値を説明したものではないはずです。
固定資本は、生きた労働を通じて減価償却的に「労働価値」形成に寄与するものです。
(固定資本は、それ自体で「労働価値」を内実として持っているものですが、最終財を生産するための手段と考えたほうがいいのでこのような表現にさせてもらっています)
[すみちゃん]
「この説明に従うと、例えば設備の劣化や場所の相違、労働力の質の相違などの理由によって、単位財を生産するのに必要な稼働資本の大小が生ずるのは当然のことなので、単位財の労働価値は資本ごとに異なることになります。
そうではないということですか?
つまり、単位財は資本が異なっても同一の価値を有するはずであり、その購入に費やされる貨幣量は同一であるはずであるから、そこに表象される労働価値も同一でなければならないということですか。
そうすると、稼働資本の現在価値の典型値ないし平均値ないし特定経済圏における相場を仮想するということでよいでしょうか?」
(あっしら)
この部分は基本的に冒頭の説明に代えさえていただきます。
日本という国民経済社会が、テレビ1台をつくるために、部品・部品のための生産設備・組み立てのための生産設備を含めてどれほどの活動(力)を必要としているかが、「労働価値」を意味するとお考えください。
30年前は20インチのカラーテレビを1台製造するために活動量を10単位必要としたが、現在では3単位で済むようになったというのが「労働価値」の上昇です。
30年前は10単位の活動でカラーテレビが1台しか造れなかったが、今では3単位で1台、10単位なら3.3台も造れるようになったと考えていただければわかりやすいのではと思っています。
その一方で、近代経済社会ではすべてが貨幣で取り引きされていますから、このようなレベルの表現は経済学的にほとんど意味を持ちません。
仮に、現在の“実質賃金”が30年前の“実質賃金”の3.3倍であるなら、「生産性」の上昇はありません。
そうであっても、ひとの活動でどういう成果を手に入れられるかという話しである「労働価値」は上昇しています。
[すみちゃん]
「禅問答みたいになってきますが、
典型労働価値よりも少ない労働価値で単位財を生産できる生産効率の高い資本は、その単位財に込められる労働価値が小さいという論理になりませんか?
個別供給主体(個別資本)ごとに、単位財に込められる労働価値は異なるという論理の方がすっきりしませんか?
単位労働あたりの生産数量の大きい資本は、労働価値が大きいのではないですか?
どうもこのあたりの思考様式が良くわかりません。」
(あっしら)
この部分は、すぐ上と冒頭の説明に変えさせていただきます。
「典型労働価値よりも少ない労働価値で単位財を生産できる生産効率の高い資本は、その単位財に込められる労働価値が小さいという論理になりませんか?」は、労働価値は大きいという答えになります。
「個別供給主体(個別資本)ごとに、単位財に込められる労働価値は異なるという論理の方がすっきりしませんか?」は、労働価値は個別経済主体を超えた国民経済総体を考えるための概念として位置づけています。
「単位労働あたりの生産数量の大きい資本は、労働価値が大きいのではないですか?」は、資本ではなく、単位労働あたりの生産数量の大きい“生産方式”は、労働価値が大きいと言えます。
[すみちゃん]
「そうしますと、貨幣経済社会以前では、労働価値は財の生産数量、あるいは財の質の変化によって認知できるということでしょうか?」
(あっしら)
あることをどれだけのひとの活動で成し遂げられるのか、あるものをどれだけのひとの活動でつくることができるのかが「労働価値」ですから、貨幣経済社会ではなくともそのような指標で認知することができます。