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(回答先: 貨幣論の入り口として書いたつもりでした 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 8 月 03 日 17:43:26)
縄文ビトさん、どうもです。
タイトルの「お金の話のことですが」を気にはしていましたが、縄文ビトさんの元のレスを読む限り、例示された分業の話はプレ貨幣経済・プレ国家の経済社会を前提としたもので、「借り入れ」や国家はずっと先に論理展開されるべきテーマになります。
「お金の話のことですが」というタイトルもあるので、解決方法2で商人が発行する“証書”(論理的原初の貨幣)を用いた説明をさせていただいております。
自立した小生産者間の交換で実現される社会的分業に「借り入れ」や国家を持ち込んで説明するのは飛躍に過ぎると思っています。
※ ちょっとした苦言
縄文ビトさん:「ちょっと読み違えているのかな、という気がいたしますが。
私が提起した問題は「貨幣」という性質でした。題名でヒントとしてお金の話のことですがと書いたのもそのためです。
ただここで二つの答えが出るかと考えていました。
一つは借り入れという問題であり。もう一つは国家という問題だと考えていました。」
縄文ビトさんにとっては読み違えられたということになるかもしれませんが、再度読み直しても、例示条件は孤立した小生産者間の商品交換をどうやって実現するのかという問いを超えて理解することは不能です。
求める答えに“期待値”があるのなら、それに結びつくような問いをしたほうがいいと思いますよ。
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[縄文ビトさん]
「「借り入れ」あっしらさんの文章に良く出てきますが、例えばこの商品がAからEまで全て一万円という価格だとします。そこでAでもEでも良いのですが誰かが最初に一万円という借り入れを起こしたとします。ここではAさんとします、Aさんは自分の欲しい野菜をCさんから一万円で購入します。そのとき一万円札はCさんの手に渡ります、そこでCさんはEさんが持っている靴を一万円で購入します、今度はお金はEさんの手に渡ります。また同じようにEさんもBさんのお米を購入します。今度は最初に借り入れたお金は同じ番号のお札としてBさんの手に渡ります、そこでまたBさんもDさんが持っている着る物を購入します、そして最終的にDさんはAさんの持っている魚を買い入れます。
一枚の一万円という貨幣が全体の欲望を満足させる仲介者となるわけです。
ただ借り入れというのは、返済しなくてはならないものですから、一巡したところで返済したとします、そのときAさんからEさんまで次の商品をさばくことが難しくなります。」
(あっしら)
例示された条件において、「一枚の一万円という貨幣が全体の欲望を満足させる仲介者となる」必然性はありません。
それどころか、売ることができ買われるはずの商品を生産し所有している人がなぜ1万円の借り入れをしなければならないのか不明です。
そして、ご自身も判断されているように、借り入れを始源に連鎖的に行われた交換は行き詰ります。
借り入れを出発点とする説明をしたいときは、まずもって、買いたい商品(群)に見合うだけの売れる商品を持っていない人(組織)を設定しなければなりません。
[縄文ビトさん]
「また、借り入れ返済が一巡ではなくいつでも返済という形であればこの関係は一枚の一万円札があれば永久に続くわけです。そこから乗数理論の波及効果という理論が成り立つと考えます。単なる五倍(私が読んだ本にはそのように書いてありました)ではなく十倍であり百倍の波及効果を持つと考えます。」
(あっしら)
これは、別の前提条件では成立するとしても、例示的条件では成立しない論です。
返済の義務がなければ、支払い手段としての1万円札が取り引きの連鎖を担い続けるというのは確かです。
しかし、例示された条件では“単純再生産”を保証するだけで拡大的生産を実現することはありませんから、乗数理論云々を論じられる事象とは言えません。
乗数理論は消費性向や総需要=総供給の変動が関わっていますから、そこのところを論理的に説明しなければ、「十倍であり百倍の波及効果を持つ」という表現は情緒的というか思い込みではないかと批判されてもしかたがないと思います。
[縄文ビトさん]
「そこから貨幣は商品の交換ではなくその商品を製造した労働力の交換を仲介するものといえます。」
(あっしら)
貨幣が・・・ではなく、商品の交換は労働(活動)の交換を意味するというのなら同意できます。
縄文ビトさんの「あっしらさんお久しぶりです」( http://www.asyura2.com/0505/hasan41/msg/487.html )に対する「簡単なレスです。」( http://www.asyura2.com/0505/hasan41/msg/499.html )で説明したように、貨幣は、交換の仲介をしているとしても、それを目的としたものではありません。
労働の交換=分業の歴史的存在様式が、互酬や贈与であり、商品の交換であり、貨幣経済だと考えています。
[縄文ビトさん]
「またもう一つの考え方として、借り入れという考え方ではなく、国とかが紙幣を発行し例えばAさんの持っている魚を買い入れた時、貨幣は返済する義務を負わなく、いつまでも周り続けるわけです。そのとき国は紙幣を刷った材料費と労力だけで一万円の商品を濡れ手に粟という感じで手にすることが出来ます。
(日銀職員が高給取りという関係がそこにあるかと感じます)」
(あっしら)
物価変動の問題やなぜそのような貨幣を経済主体が受け容れるのかといった根源的問題を考察する必要はありますが、おっしゃられている意味は理解できます。
(国家は政治権力を行使してただ同然で財やサービスを手に入れることができるし、それによって国民経済が円滑に循環する可能性もあります)
※ 日銀職員の高給と「濡れ手に粟」は直接の関係はないでしょう。日銀が得た利益は国庫に入るようになっているわけですから、日銀職員の高給は、上級公務員(キャリア官僚)の高給と同じ話だと思っています。
[縄文ビトさん]
「以上が現在まで考えてきた貨幣論の中身です。私自身はここが貨幣論の出発点であり、ここから多くのことが読み取れるのではないかと考えています。」
(あっしら)
失礼は承知ですが、前提条件や判断(結論)に至る論理過程をもう少し緻密に吟味されたほうがいいと思っています。