★阿修羅♪ > 議論21 > 547.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: Re: そこで闘わない奴がいつ闘うというの?>左派系の問題点の集積のような意見です。 投稿者 考察者K 日時 2005 年 7 月 27 日 08:48:13)
考察者kさん、こんにちは。
最近の考察者kさんを取り巻く応答の状況を観察し、考察者kさんの所為は情勢分析から単なる社会評論の域へとシフトしてしまっているのではと、そんな危惧を覚えました。
そこで、【ご意見に感謝いたします。http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/511.html投稿者 考察者K 日時 2005 年 7 月 24 日】にたいするレスを兼ねて私見を具申したく考えます。
>【両者共に現実の運動への係わりの頻度が不足していることが対話の不毛性を現出してしまっていると感じます。】は、Kの場合はかなり微妙です。詳しくは書けませんが、Kには現実の運動に関わってきたという自負があります。もっとも、Kより深い関わりを持っている人は星の数ほどいます。
単なる私の想い込みではなく、首記の如くのような考察者kさんの変節は「Kには現実の運動に関わってきたという自負があります。」に因む何らかの挫折及び失意の体験に依拠しているものと推察します。そうでなければ、これまでの文脈に「自負」がどう反映されているのか腑に落ちないものがあります。それとも、例えば過去に孤立無援の闘争を強いられたことがあって、それが影を落としているのでしょうか。何れそうした裏付けがなければ、今ある現実の運動を評価することに何ら説得力を有さないでしょう。すなわち、少なくとも総括の状況を詳らかにされない限り信頼に値するか否か、考察者kさんの言説にたいする評価が分かれると想われます。しかし、これは難関でしょう。
したがって、このような状態では以下の言説が分析を発地にしているかのように見えても結局は評論に帰着していると見做されても仕方がないのではと考えます。
***************************************************************************************************************************
>ここが、最大の問題点なのですが、デモとかストライキとかの「高揚感」が一種の麻薬(習慣性)になって、間違った考え方(闘争至上主義)を広げ、逆に「目的に向かう上」で足枷になっているのではないか?とも考えます。
>同意の意を示さない運動(起立の拒否)、デモ行進、ストライキ・・・このような実力行使は最終的には「テロ」にまで達します。
>Kは次回以降の選挙に向けて「いかに勝てる体制を作れるか?」のみに焦点を絞るべきだろうと思っている。「国鉄民営化反対署名約5000万人分」も「アメリカ911同時多発テロ」も結局は何の変化も起こせなかった。これは、抵抗派の理論による「既存の抵抗手法では何も変えられない」事を物語っている。おそらくは、上記の2つ以上の「不満の集約的抵抗の意思表明」は今後は起こせないだろうと思う。
>例えば「君が代反対」だが、理念的にはKは反対しない。しかし、結局は体制と反体制の意地の張り合いである。処分者を助けたいとは思うが「最終的に最高裁まで行って『処分は不当』の決定を勝ち取ったとしても、得られるのは『歌わない』事」だけである。
>それは、次回の選挙に大同団結的な多数派形成をしたいと考える人にとっては「ハッキリ言って迷惑な跳ねっ返り行為」と思われる側面もあるわけです。事実、共産党の頑固さが「結果的に自民党を勝たせた」という歴史的な側面もある。とKは思っています。
****************************************************************************************************************************
>現実をいかに認識し、その現実の中で「自分の想いを、いかに実現してゆくか?」に焦点を合わせていくべきと言うのがKの考えです。
>ならば、どうするのか?「選挙の時、庶民の声が活かされる環境作り」であり「国民の声がストレートに政策決定に反映される環境作り」を最優先に考えていくしかない。
>Kも「相手の生活常識を刺激するような行動」をするのは結局は逆効果になる可能性が高いのではないか?と思っています。(異物の排除理論の俎上にのせられると言う事です)
これ等を起点にして頗る現実的なテクノクラート流儀の視座及びその彌縫策について語ろうとしているのでしたら、そうした立場の言説として必ずしも肯けないことではありません。けれども、郵政民営化も君が代斉唱反対も断じて社会問題にあらず、確実に政治的な問題でしょう。その考察にあたっては自らの政治的立場と絶えず照合していかねばならないはずです。
もし、再び政治運動に身を置かれたとして、考察者kさんはやはり同じような戦略・戦術を唱導していくのでしょうか。それとも、当分の間は政治運動そのものを等閑視されるのでしょうか。そして、それは何時まで続くのでしょうか。
ところで、東大教授時代の舛添要一氏はそこそこの内容のある発言をされていましたが、参議員選挙への出馬と相前後して所謂小利口な発言を繰り返すようになりました。また最近では外見上は改革派を装いながら、内実は頓に保守化に拍車が掛かっている様子です。人間は年齢(とし)を重ねていくと自分があるのは国家の存在があってのことと思い込むように、ますます自家撞着の傾向を示すようです。
また、会いましょう。