★阿修羅♪ > 議論21 > 514.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 縄文ビト さん ジャン さん 投稿者 外野 日時 2005 年 7 月 23 日 06:25:19)
外野さん、どうも。話の関連で取り上げていただき恐縮です。
○「アスファルトを煉瓦敷きに変える」という主張について、雇用問題を考慮されているとは思いませんでした。
私のほうは、あれから、どちらが二酸化炭素の排出量が少ないのだろうかと疑問に思っておりましたが、
http://www.toadoro.co.jp/enterprise/details/123.html?ref
を覗いてみましたら、レンガ敷道路も、路盤にはアスファルトコンクリートを使っているので、結局、大差がないのだろうと思いました。トラックやバスなどの重量級の車両交通にどれだけ耐えられるか疑問で、おそらく歩道専用、公共交通機関としての路線バス用の道路としてどうなのか。さらに、歩道用としても、表面の凹凸は、車イスにとってどうなのか。単に金をかけてヨーロッパ趣味の道をこしらえて、いい環境になったとか、人にやさしい道になったとか錯覚しているだけではないのかというのが、率直な感想です。
>>「公共交通機関の整備は予算が豊富な地方自治体向けということですが、上に少し書きましたように、新たな職の創出という観点からも(工事も含めてです)、また車を減らすには絶対必要不可欠なものであると考えています。」
○新たな職の創出にこだわられる見識の高さを、私は、むしろ環境問題にとってはマイナスではないかと思います。
本来、社会の進歩は、人間の幸福のためにあるのであって、機械化・合理化は、労働時間の短縮に寄与するものです。それが、反対に労働者にとっての苦痛になるのが資本主義社会であればこそです。また、現代の日本は、なかなか改革が進まない体質がありそうですから、むしろ環境問題に絞ってドラスティックな改革をすすめられればよいことです。その結果として雇用問題が発生したとしても、それは資本主義の矛盾であって、環境問題のせいではないのです。
>>土地収容問題などで安く土地を提供してもらうために、ある程度社会主義的な時限立法的な法も必要になるかもしれません。
○路面電車等のための土地収用法の適用ということでしょうか?土地収用法の適用で、買収価格が安くなることがあるのでしょうか。公共用地の買収は、相手のいい値できまるものではなく、適正に評価された価格の範囲内で決まるもの。いくら粘っても高くはなりません。では、なぜ土地収用が進まないのか。売るのはいつでも売れるから、それまでに、その土地を利用して稼いだほうがいいから。あるいは、その土地に所有者の格別な思い入れがあるから。
それと、「社会主義的な時限立法的な法も必要」というのが環境問題にかかわらず、さまざまな面での外野さんのスタンスととらえてもいいでしょうか。
>>愛知では、私鉄が新たな線を作ろうとするとトヨタが反対にまわり中々思うようにいかないという話を聞きます。第三セクターの鉄道建設もありましたが、全く必要のない無意味なところに出来て、単なる展示物、としか言えないというようなこともありました。
「愛知は車がなければ身動きがとれない所」。これがいまだに住民の正直な感想と言えると思います。
○なるほど。愛知は日本の縮図かもしれませんね。
>>日本の食糧自給率は現在でもまだ40%です。先進国にこんな国はありません。アメリカ=122%、フランス=121%、ドイツ=99%、イタリア69%、イギリス61%。日本も1965年当時は73%でした。イタリアなどは選挙で水確保の政策が大きな争点となるような国であるにもかかわず自給率は7割です。
このように食料安全保障からも日本は十分に農業を保護する理由がある国です。その保護より、自動車や家電などの大輸出産業の儲けを優先させたのがウルグアイ・ラウンドでの日本の態度だったといえます。
○外圧や、自動車産業等のためだけではないでしょう。農業者自身が農業離れを起こしています。荒れ果てた農地・森林があちこちにあります。地方交付税や補助金でほそぼそと3割自治をやってきた地方自治体も、いまや破産状態。終身雇用制度も崩れた今、いっそう裕福な自治体へむかって人口が移動し、田舎は荒廃した田畑と老人しか残らなくなるかもしれません。
>>現在日本では失業対策も大きな課題となっていますが、今からでも農業分野に力をいれるべきだと思います。それは「持続可能な社会」における大きな第一歩でもあると思います。
○「持続可能な社会」という言葉は一つの流行語のような感じがしますが、私としては、いまひとつしっくりこないものがあります。失業者の増加が社会の持続可能性を低下させるのであれば、歴史的にも、また南米やアフリカなど世界中で社会が破綻して、持続できなくなっているはずです。「終末予言」をちらつかせる宗教と、「持続可能な社会」をふりかざすこととどれほどの違いがあるのか。どちらも、何かの結果に物事を誘導しようとして持ち出す言葉にすぎないのではないか。その意味で「持続可能な社会」という言葉の多用にはどうかという気がします。
それに、持続可能な社会とは、広い意味では現状レベルの社会をどことなく前提にしているように思えます。労働運動を組織すること自体、ストライキにみるまでもなく持続可能な社会を脅かすものになるでしょう。そして、そのような意味での持続可能な社会ならたたきこわしてみてはどうなのかということになるのかもしれません。
>>日本の都会にスラムのような地区が出来なかったのは、都会で失敗しても、帰ることが出来る農業主体で成り立っていた地方があったからだともいわれています。エネルギーの節約や文化的な観点からいっても優れている「地産地消」が話題にのぼることも多くなっていますが、その消費形態の問題も含め是非近隣農業の建て直しをはかってもらいたいと考えます。
○スラムとはなんでしょうか。本当にそういう場所がないといえるでしょうか。都市計画によって、一見、みえにくくされているだけではないでしょうか。
地産地消は、地域内分業の発想ですが、すべての野菜を地域内で生産できたとしても、他県の大産地の野菜や、輸入野菜の安さには勝てません。安全性や文化的にはすぐれていても、換金できなければ続きません。そこにも資本主義の矛盾があると思いませんか。
>>過疎地の問題は、過疎地だけを対象にして何かしようとすることに無理があるのだと思います。
○都市と農村の問題ということでしょうか。昔は、農村は都市に搾取や収奪されているともいわれていたと思いますが、現状はどうなのでしょう。日本列島改造で、全国に個性のない地方都市が増えたけど、その過程で都市の税金が地方交付税や補助金で地方の開発が進み、不公平感をあおったようです。
また地方都市とその周辺の農村との間でも、都市と農村の問題の縮図があるように思います。その点、市町村合併で問題は考えやすくなりましたが・・
さらに、農業分野への企業の参入は、まだ始まったばかりで、どういう方向に進むかまったく見当もつきません。
>>ジャンさんの車のお話ですがよくわかります。
ある地域において自然の緑が多く、それに比して住居が少なく、車の数に対しての排ガス処理などの自然の循環機能が十分機能しているような所では、マイカーを認めるのはよいことだと思います。
○そうでしょうか。田舎でも、ここ数十年、夜空に見える星の数はどんどん減ってきています。また、河川や湖沼の汚濁も、下水道や農業集落排水の普及にもかかわらず、改善が進んでいません。社会システムを根本的に変えなくとも、合成洗剤の製造禁止、個人車両の所有制限は法的には可能でしょう。(その際、洗剤製造業や自動車産業のこと、及びその労働者のことは問題として考えるべきことではありません。)
しかし、それをしようとしないから、個人個人の意識にたよることしか今はできないのですが、一人ひとりの環境意識にどんなに訴えても、それは遅々とした歩みにしかならないのです。
もし、「持続可能な社会」を振りかざし、危機感をあおるのなら、それに対応した政策やスローガンを出せばいいのですが、そういう感じがないように思います。もしかしたら私が不勉強なだけかもしれませんが・・。