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(回答先: Re: 縄文ビト さん また改めてご返事します 『わざわざすみません、お仕事頑張ってください』 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 7 月 22 日 08:42:26)
>>まずはその今の戦いに勝ってから、戦法を(主義主張を)云々する
>>ことにしましょう、というのが僕の考えることです。
>
>今の戦いに勝つ、どのように闘うのですか、それを聞かせてください。
>そして勝てる戦いなのかもついでに聞かせてください。
『参考』は”地域から持続可能な社会をつくる 諸富撤 http://www.h7.dion.ne.jp/~fttb/d/sus.html ”のみにしておけばよかったかもしれません。
そうすれば、僕がどのようなことを具体的には想定しているかがご理解いただけたかもしれないと思います。
以下は次の三つの投稿も関連づけながら進めたいと思います。ご了承下さい。
Re: 謹呈。
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/474.html
投稿者 ジャン 日時 2005 年 7 月 20 日
球環境問題は社会システムの問題でもあると思います。
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/484.html
投稿者 外野 日時 2005 年 7 月 21 日
Re: 球環境問題は社会システムの問題でもあると思います。
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/487.html
投稿者 ジャン 日時 2005 年 7 月 22 日
環境問題と搾取などの問題は分野が違うというご意見はその通りだと思いますが、僕が現実には有り得ないような地方都市を例にあげたのも、環境問題への取り組みは社会全体を根底から変える必要があるものであり、多くの他の分野の問題も包含するものとの認識があるからです。また、緊急性というよりも社会の進路の方向性におけるプライオリティの問題であり、それは家が壊れかけているのに、それを直さないで生活の問題もないのではないか、というにも似ています。
でもこのへんは人それぞれ考え方がいろいろあるのかもしれないと思います。そして、少なくとも、そういった事前の説明のようなことは今回必要であったと反省をしている次第です。そのため、如往さんにまでご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ありません。
ゲーテはファースト博士に聖書の「初めに言葉ありき」を「初めに行いありき」となおさせていますが、僕はこれには賛成です。言葉というのは、行動などの対象になるものがあって初めて存在できるものと思うからです。
また、如何なる偉大なイデオロギーも所詮人が作ったもので、改良をしていくという道はあるのかもしれませんが、何時の世のどの人々にもあてはめることができるのかどうかは非常に疑問です。イデオロギー(言葉)で社会(行い)を規定してしまうと、いろんな軋みが生じ、ある時にはそれは致命的な作用を及ぼすこともあるのではないでしょうか。
さらに、環境問題でいえば特に、これまで人間が直面してこなかった問題が立ちはだかっており、そこでは既存のイデオロギーは用をなさず(というのもそれでの失敗が現在の状況を生んでいるともいえるのですから)、医者が病気を治療するように、あくまで現実に即して「初めに言葉ありき」ではなく「初めに純粋に科学的な対応(行い)ありき」で対処するしかないような状況にある、というのが僕の論旨です。
縄文ビトさんの提言が、そういった処方箋のようなものであれば問題はないと思います。
◇
アスファルトを煉瓦敷きに変えるというのは、そもそもがアスファルトというのは自動車のために出来た材料であること、それを人間のための道路にすることがまず第一に大事であったことと、自動車産業に従事していた人がそういう環境整備職に就くことを仄めかすためでもありました(実際はそういう転職はむずかしいのかもしれませんが)。しかし、たしかに環境を左右する材料としての比較はやらなければならないことでした。個人的には石畳の舗道などが好ましいのですが、多くの石を切り出す必要があることから、そちらの産業に雇用が多く生まれるということもあり、こちらのほうがよいかもと思います。ただ、日本にはそれだけの石の資源があるのかどうか、ちょっとわからないといったところです。
公共交通機関の整備は予算が豊富な地方自治体向けということですが、上に少し書きましたように、新たな職の創出という観点からも(工事も含めてです)、また車を減らすには絶対必要不可欠なものであると考えています。
土地収容問題などで安く土地を提供してもらうために、ある程度社会主義的な時限立法的な法も必要になるかもしれません。
このへんも、イデオロギーでまず囲う前に、現実に即して答えを見つけていこうという良い例なのではないかと思います。
”自動車のための戦争 (ビル・トッテン)” http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/511.html に、興味深いことが書かれていますが、たとえば日本でも愛知県などスケールの問題では小さくなりますが同じような問題を持っています。最近、名古屋では地下鉄の環状線が出来て、初めて鉄道による都市の環状線の誕生となりました。東京、大阪と比べると、愛知は10年20年いやもっとそれ以上公共交通機関の整備が遅れているということを皮肉にも立証したような出来事です。
愛知では、私鉄が新たな線を作ろうとするとトヨタが反対にまわり中々思うようにいかないという話を聞きます。第三セクターの鉄道建設もありましたが、全く必要のない無意味なところに出来て、単なる展示物、としか言えないというようなこともありました。
「愛知は車がなければ身動きがとれない所」。これがいまだに住民の正直な感想と言えると思います。
過疎地の問題ですが、これは農業、林業の衰退と関係の深い問題だと思います。しかもこの問題も「自動車産業」と無縁ではありません。ガットのウルグアイ・ラウンド(1986年〜1994年)では多くの大メディアが「農産物の包括関税化」などは国際貢献になるとのわけのわからない論陣をはったようですが、つまるところ真意は「自動車産業」などの大輸出産業のために農作物分野を犠牲として差し出す、ということにあったと思います。
日本の食糧自給率は現在でもまだ40%です。先進国にこんな国はありません。アメリカ=122%、フランス=121%、ドイツ=99%、イタリア69%、イギリス61%。日本も1965年当時は73%でした。イタリアなどは選挙で水確保の政策が大きな争点となるような国であるにもかかわず自給率は7割です。
このように食料安全保障からも日本は十分に農業を保護する理由がある国です。その保護より、自動車や家電などの大輸出産業の儲けを優先させたのがウルグアイ・ラウンドでの日本の態度だったといえます。
現在日本では失業対策も大きな課題となっていますが、今からでも農業分野に力をいれるべきだと思います。それは「持続可能な社会」における大きな第一歩でもあると思います。
日本の都会にスラムのような地区が出来なかったのは、都会で失敗しても、帰ることが出来る農業主体で成り立っていた地方があったからだともいわれています。エネルギーの節約や文化的な観点からいっても優れている「地産地消」が話題にのぼることも多くなっていますが、その消費形態の問題も含め是非近隣農業の建て直しをはかってもらいたいと考えます。
過疎地の問題は、過疎地だけを対象にして何かしようとすることに無理があるのだと思います。
ジャンさんの車のお話ですがよくわかります。
ある地域において自然の緑が多く、それに比して住居が少なく、車の数に対しての排ガス処理などの自然の循環機能が十分機能しているような所では、マイカーを認めるのはよいことだと思います。