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(回答先: 闘争に対する批判はその闘争の主張が間違っている場合にだけ正当です。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 22 日 21:33:28)
>ワヤクチャさん これで最後にします。
Kを日和見主義の評論家と「レッテルを貼った」のですから、ワヤクチャさんに取っても、これ以上のKとの対話は無意味だろうと思います。
Kは闘争において「勝つことだけを考えていると」思われているようですが、負けても良いと思います。
ただし、「明日に繋がる負け方」であるならば、という条件付きです。
「今日は負けても、その闘争過程で『多数化が進む』とか『的確な敗因の分析を行って、次回に望みが繋がれば』それは、それで効果とか価値があったと言うことです」
しかし「全く明日に繋がりそうも無い負け」と「犬死に的敗北」のような負けが見えている闘争なら、そんな物に情熱を注ぐ気はありません。
それでも「対話などによる議論とか、ネットでの主張とか、紙媒体による主張」でしたら「止め他方が良い」とは言いません。(間違っています。とは書くかもしれません)
実力行使に訴えるという行為になると「後戻りがし難いし、憎しみの連鎖に陥る可能性が高い」ので「考え直した方が良い」と主張しています。
>【戦車を止める為に戦車の前に座り込んで轢かれてしまった人を
「無駄な抵抗をした。」と思うのが貴方であり
その自己犠牲的抵抗に反戦の心意気を感じ同じような事はとてもできないまでも
自分なりに頑張ろうとするのが私です。】
少し違います。Kはこの場合「無駄な抵抗」などと言う穏やかな表現では無く「馬鹿の極致だ!」と強力な批判をすると思います。
ワヤクチャさんは、こんな事を「良い事だ!」と主張されるのでしょうか?
自己犠牲の精神などと言う物は「自己満足の憑き物」です。
本人は良いでしょうが、残された者はどう考えるのでしょう?
このような「悲しみ」と「悲しみからの復讐的対立を生むような事」を擁護するような事を主張してはいけないと思います。
生きていれば、いずれ反撃の機会が来るかもしれませんが、死んでしまったら終わりです。明日には繋がらず、犬死にとしか評価できないでしょう。(状況によっては、やむおえない状況もあるでしょうが・・・)
多数派が常に正しいとは限らないとは繰り返し書いているのですが、全く理解されようとしないようですが、具体的例を示して「反論された事は評価できる」と思います。
ただ、Kの主張は「多数派に黙って埋もれろ」というものではなく「多数派の形成できる着地点を考え、多数派形成ができるように努力すべき」と言う物です。
「主張をするな」ではなく「方法論をかんがえろ」であり、「変人と思われるから、止めろ」と言うより「まずは、変人と思われないような環境作りから考えた方が良い」と言う事です。
>【例えば広瀬隆さんという方がいらっしゃいますね。
彼は自ら努力して情報を集め情報自体に語らせるという方法で人々を組織しているのです。】
具体的には知らないので、ハッキリとは分かりませんが、情報自体に語らせる事で組織化(多数派形成の一手法)が、できているのなら素晴らしいことです。Kは何度も「そのような情報の提示とか主張の提示などによっての、手法に切り替えた方が良い」と主張しています。思考停止的に「実力行使的、抵抗」というノスタルジックのイメージに固執しているのがワヤクチャさんの方だとKは考えています。
Kの意見が一般論という主張を繰り返されているようですが、具体論に踏み入っても良いのですが、その都度「それは、特殊な例で意味が違う」と主張されたのがワヤクチャさんなのです。
評論家というのはある程度当たりです。Kは「戦車に挽きつぶされて悲しむ家族に対し、どんな責任も取ってやれません」、ワヤクチャさんは「それを良い事だ!」というような主張をされているのですから「当然、実際に取り返しの付かない状況になった場合には、何らかの義務を負うことになります。」
抵抗して処分された方に対しては勿論の事、処分された人の家族に対しても、「その行為を応援した(後押しした)責任」と言う物が生じます。
そこを果たさなければ、それこそ野次馬であり、無責任な評論家です。
では、お疲れさまでした。