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(回答先: 正しい主張が多数にならなければ意味が無いと私は言っているつもりですが。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 21 日 21:54:12)
>ワヤクチャさん
一つお聞きしますが、多数の人が不満を持っている社会は、多数の人が不満を持っていない社会と比べ、どちらが良い社会でしょう?
連合赤軍(浅間山荘)事件については、麻生幾氏の「封印されていた文書(ドシエ)」をお読みになると良いかもしれません。あの事件は「単なる内ゲバの果てに追いつめられただけ」であり、総括の名の下に「気に入らない者を粛正しただけ結果」の崩壊であった事が分かるでしょう。幹部が「自分のやりたいようにやり」「組織構成員は自己保身のために仲間を殺していったのです」
どこにも
>【彼らは論理的な典型例を示したと思います。
「革命戦士はかくあらねばならぬ。」というイデア支配の結末を。】
と言う要素はありません。理想があったのは結成時からしばらくだけだったのだろうとKは思っています。
民主的手法を否定し、正しい者が導こうとした結果、最悪の状況になり果てたのです。
>【将棋で負けたら何故負けたのかを考える事が大事であり、「やり方がまずかった。この勝負は価値が無かった。」とダケ総括していたら腕は上がらないのと同じです。】
それが、分かっているなら、少しは考えて下さい。ワヤクチャさんは「負けても、中飛車戦法が正しい」と主張しているのと同じでしょう。
Kは、負けない戦術を工夫しようと主張しています。それに対し、ワヤクチャさんが「戦術は見直さない(新しい戦術があっても、旧戦術も続ける)という意味の主張をされているのでしょう。
>【正しい事を主張しても少数派で敗北する事は多々あるのであり、「敗北したのはそのような主張をするという選択が間違いだったからだ。」なんて言っても意味無いのです。】
どうなのでしょうか?これが多数決による敗北の事だとすると、「主張」の敗北と、「戦術」による敗北の二種類があります。Kは「主張」による敗北だったら、それは「主張」が間違っていた。可能性が高いと思います。
「多数決に参加した人の全員が、公平で中立的な自分の良心に従って、票を投じたのだとすれば、誰がどう見ても正しい事が負ける訳がありません」
それで負けるなら「勝った方にも、負けた方が思い込んでいる以上の理(ことわり)があったはずです」
どちらの理が正しいのかは主観です。Kは「絶対に自分が正しい」と言い切れるほどの知識も考察力もありませんが、ワヤクチャさんは言い切れるのですね?
>【勝つという目的を導き出す為の現在の戦術を「手練手管」で評論家的に考えているダケであり、現実のパトス(情熱)を伴った闘争の現場はそんなものではありません。】
結果を出さなければ、何も変わらないですよね。パトスを伴った闘争に固執して結果が出せなければ、それは単なる自己満足でしょう。
>【闘争の現場に共感できず「勝つ方法論」を醒めた目で模索するダケでは闘争などと言うものは成り立たないでしょう。
と書いてきて、長壁さんや手ポリオさんに対して私が行った批判を考察者Kさんが私にしているダケなのか?という気がしてきました。
違うかな?】
Kは人様の論争には基本的に関心ありません。ワヤクチャさんと長壁さんの論争も、手ポリオさんとの論争も読んだ記憶がありませんので、何とも言えませんが
「闘争の現場」に共感する事で勝てるとは限りません。(共感が悪いと言う意味ではありません)
でも、基本的に現場というのは「高揚感」から「冷静な判断」ができなくなる傾向が多いでしょう。
感情論に流されてしまうと、多くの場合には敗北に繋がる可能性が高くなるとは思っています。
では、では