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(回答先: 縄文文化から我々は何を学べるのか? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 16 日 22:18:15)
天地人合一
縄文人はそれを守っていた。
その証は出土品などの傍証に得られるものはあろう。
縄文人の自然観。それが一番大事なものではないか。
いつからか、人が人でなくなったのかもしれない。
感じ取ろうとする側の意識、姿勢が整っていなければ、何からも何も感じ取る事は出来ない。そもそも縄文時代が我々に何かを語りかけて来ている訳ではないのだ。知れないものは知らないで済む、のだ。
縄文時代をバイブルのように挙げても、現代に同じように実行することが出来るかどうかはわからないし、またそうするのだとすれば国に働きかけても仕方ない。縄文的世界観を構築するのは個人個人の意識に掛かっているとしか言えない。
また一人でも多くそうした世界に生きようと試みる事、そのことが縄文的世界を動かすのかもしれない。それは成功するものだろう。
何を学びとり、社会に生かすのか。戦争のない時代に戻すというのなら、限られた空間に於いてそれは成功するだろう。一人であってもそれは成功といえる。ひとりでもそうした空間に呼び戻せばいいだけのこと。弱者救済。その心を、知恵を学ばなくてはならぬ。そして強さも学ばなくてはならないだろう。それは別に縄文に固執する事も無いのだ。心を学び、それが縄文にあるのだと感じたなら、それを感じ取るのだ。
何故縄文に人々の関心が向きはじめたのか、そもそも現代人が縄文の何を学ぼうとしようとして調査発掘しだしたのか。その魅力とは何かを論じればおのずと惹かれるものがあろうか。
今の社会に縄文の何かをもってきて、いきなり役立てようと提唱してもそれは無理というものだろうがしかし、頭ごなしに無理と言う事もおかしなことかもしれない。日本のある地方の祭りにみられる伝統息づく縄文のそれは、確かに現代人が飢渇している魅力的な文化形態であることを伝えている。これも体感しないものにはわかるものではない。
縄文世代は戦が見られない事。肉食をしないこと、見識高い自然観があったことなどは、中世、近代に比べても、遥かに人々の生活が調和を大事にしていたものだということを単純に物語る。
確かに魅力的だ。
太古より人は本質的にはなにも変わっていないはず。
縄文人が、思ったよりも遥かに豊かな発想を持ち、自然と正しく向き合い、弱者救済、嘯く罪に厳しく、和を保ちつづける努力など徹底して行ってきた事などは驚くべきものだ。
いま、現代人が忘れかけて久しいものを遥か昔の人間が課題として提出してくれたと思えばいい。
縄文に生きた暮らした人々は、自然と人は如何にあるべきかを完全に熟知しており、そしてきびきびと生き生きと、人としてあるべく確かな生活を謳歌していた、という事は祭祀遺跡跡、住居跡、出土品などの傍証だけ観てもそれらを物語っている。
けして戦をしていた蛮人の部落集団などではなかったという事。それにさえも人は何かを学べるというものだ。
カミと人との純粋なつながりとはどういうものか。
それがわからないものには縄文の本質は何もわからないともいえる。
しかしそれは現代人にも何変わる事無く通ずるひとつのテーマだ。
本当の平安。心の安らぎ。それを声高に謳えるものでなければ過去から継続してある世界の素晴らしさは到底わからないものだ。
ヒントとしての書籍がある。
しかしこれがヒントとなるかどうかも、それを深く理解できる者だけかもしれない。
バーナデット ロバーツ著
「自己喪失の体験」
善悪無対の善、至善、自己欺瞞なく、意志的緊張なく働く「意は誠」。
心の外に、心と無関係の人倫の秩序を求める、心と理を二とする「支離」の立場では、五倫の道がそれ自身のうちに正当性の根拠をもつようになり、そして人の心を外から束縛するようになる。人はそれに強制され従う事になる。これがまさに現代の倫理観のもとである。
これに対する陽明学の心即理の一元論。これが今の世にもっとも重要なのだと思える。
過去数万年の何処で区切ってみても人の道徳観、倫理観なるものはすべて宗教、「心」から生まれたものだ。
その宗教、神、心の所在をないがしろにして、ただ倫理だ、道徳だと規範を強いても上手くいかないのは当然である。
心を学ばないものは人を、この自然を動かしむるエネルギーとはなにか、の答えに近づく事すら無い。何が足りていて、何を学ばなくてはならないのか。
偽善も又、善のひとつと、かねてより思うのだが、陽明学に"固執"しすぎてしまった大塩(平八郎)氏はそうは思っていなかったようで残念だ。世において善とは誰に対しても、為す事が大事であるのだ。情けは人の為ならず、己の為にやるものでもある。ならば偽善であれども、時として、為すべきときには善として為しうるべきものだと思う。それが人々をつなぎ広げるものなのだ。
固執してしまっては見えてこない。こだわるな、こだわりを捨ててひろう。また捨ててまた拾う。こだわるな、にこだわらず、執着せず、また否定もせず、異を肯定することにまたこだわる事も無い。