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縄文ビトさん、Sun Shineさん、横レス失礼致します。
また、勝手に雑談板の投稿を議論板に転載致しまして二重に失礼いたします。
縄文ビトさんとのやり取りはこの議論板の方がいいと考えこのようにさせていただきまいした。
縄文ビトさんも議論は議論板でとお考えだったと記憶しておりますし。
ところで下記の縄文ビトさんの文章の中に
「(縄文時代には)1万2千年の間戦争も無く」というくだりがありました。
この点は確かに重要な点でしょう。
そこで私が思いますに
「縄文時代に戦争が無かった。」という事はどのようにして立証されたのか?
という点と
もし、それが確かであれば何故なのか?という事、
さらには、では、何故人間はその後戦争をするようになってしまったのか?
また、こうなってしまった人類にとって(戦争が無かった?)縄文時代から何を学べば戦争を無くす事ができるのか?
という事です。
私が思いますに戦争とは国家というような巨大な単位での利益共同体を生み出す事によって必然になってしまったのでは無いか?という事なのですが、どのように恩われますか?
自国の国益を増大させる為に他国の国益を奪うという関係がある以上、戦争の可能性は無くならないと考えます。
では、国家を存続したままで、永遠に戦争を廃止する事は可能か?
私はそれはとても覚束ない事ではないかと思われるのです。
だから、戦争の廃止の為にはなんらかの形の国家的な役割の減少が必要だと考えます。
国家を廃止すれば少なくとも国家間戦争は起きようも無いとは言えますが。
>縄文文化こそ人間の生き方の原点です
そうなのかも知れませんが、人間はその後様々なものを身に着けてしまったのです。
良くも悪くも。
その身に着けてしまったもののどれをそぎ落とすことが可能なのか?
を考えざるを得ません。
>http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/106.html
>投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 7 月 16 日 07:51:14: egUyw5BLxswRI
>(回答先: 縄文ビトさんへ(レスをこちらに書きました) 投稿者 Sun Shine 日時 >2005 年 7 月 15 日 21:54:23)
>Sun Shine さん読んでいただけてありがとうございました。私も文化人類学には興味>を持っておりました。またそれなりの本も読んでいます。頭に残っていますのは確か>カラハリ砂漠だと思いますがのブッシュマンの生活、パプアニューギニアの原住民・>オーストラリアのアボリジーニ等が頭にあります。ただ有る人が書いた本来の未開民>族の生活を理解するのには問題があるということも言っていました。なぜなら大体が>宣教師が既に入っているということでした。
文化人類学というものに私も興味が無いワケではありません。
しかし、この学問の目的は何なのでしょうか?
様々な「未開民族」の生活習慣を調査して何をしようと言うのでしょうか?
この学問の意図は元々は植民地にしようとしている地域の人々についての理解を深め植民地支配がうまくいくようにする事では無かったのでしょうか?
そこの人々の文化を理解していない事によって思わぬ反発を受けないようにです。
また「未開民族」を見る見方があたかも「珍しい人間の標本」を見るような気がして人類全体が共時的に影響を与え合っているという事の視点に欠ける気がしてきました。
世界と関係無く「ひっそり」と「未開」を守ってきた民族などいるのか?という疑問です。
これは世界経済が共時的に影響を与え合っているという事を無視して「発展途上国」の経済を「遅れたもの」として理解する思考と似ていると思います。
欧米が第三世界から富を略奪したから第三世界は貧しくなったという事を理解しない視点です。
私はこの考えを「従属学派」から学びました。
>最近では文化人類学よりも考古学の縄文文化に文明の発生を感じています。そこでは>高度な文明を持ちながら、なおかつ1万2千年の間戦争も無く、階級・階層の発生>(埋葬後の副葬品からわかる)共同体を保っていた。ここにこれからの人間の生き方を>示唆するものがあるといえます。
縄文ビトさんがそこから何を学ばれたのかについて、またお聞かせいただきたいです。
それでは、横レス失礼いたしました。