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(回答先: Re: 現代はマルクスを超えたのか 投稿者 南青山 日時 2005 年 7 月 17 日 03:51:50)
南青山さん、レスありがとうございます。
我々はまず我々がマルクスを理解できたか?
を問うべきであり、その作業を飛ばして
「マルクスを超えたかどうか?」を問う事は間違いであろうと思います。
まして、ソ連の崩壊や中国の資本主義化や様々な自称社会主義国の問題点をあげつらって「マルクスは死んだ。」というのは間違いであろうと思います。
私は柄谷行人氏の「マルクス その可能性の中心」という書物における
「マルクスをその可能性の中心において捉える」という発想に賛同する者です。
そして、「可能なるコミュニズム」において彼はマルクスが協同組合を来るべき社会主義社会における生産管理の組織として位置付けている事を再発見したのです。
ですから、私の協同組合の主張はマルクスを継承するものであると自負しております。
>Re: 現代はマルクスを超えたのか
超えた超えないの議論以前に「理解できたのか?」が問われるべきです。
>http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/428.html
>投稿者 南青山 日時 2005 年 7 月 17 日 03:51:50: ahR4ulk6JJ6HU
>(回答先: もう一つだけ返信します。返信3「奥まった理論」って何ですか? 投稿者 >縄文ビト 日時 2005 年 7 月 04 日 07:30:43)
>横レス失礼します。縄文ビトさんの以下の文章がちょっと気になったもので。
>>J 奥まった理論とは思想的なものが無いということかもしれません。現在でしたらマルクスを越える考え方を作れば民衆は付いてくると考えますが、ワヤクチャさんの書き込みはマルクスを超えていますか?マルクス内ではありませんか、多くの人がマルクス理論に取り付かれました。でも現在は社会主義国の失敗からやり場の無い虚無状態に陥っている、そこではマルクス理論からの反社会をぶち上げたとしても最初は聞いてくれる人はいてもどうにもなら無いということを理解してしまう。たとえ経済苦から自殺者が年々多くなったとしても、マルクス理論ではこの社会を変えられないということを知っているわけです。マルクス理論を越えるものを出してください、あなただったら形而上が理解できると言っているわけですから。
南青山さん>小生は、マルクスが提唱したいくつかの考え方、具体的には、私たちの生活の背後に潜む貨幣システムについて考察した価値形態論、産業革命以降の経済システムと政治システムの成り立ちを考察したいくつかの論文(「経済学・哲学草稿」『資本論』)、人間社会の成立の基盤を歴史的に考察した唯物史観(「ドイツ・イデオロギー」)などは、可能性という面も含めて、いまでもこれを超える思想は出ていないと考えています。
私は未だにこれらの書物を充分に読めておりません。
恥ずかしい事だと思っております。
読んでいきたいと思っております。
南青山さん>マルクスの背後にはヘーゲルがあり、ヘーゲルの国家論、社会論、弁証法的歴史観を超えるのさえそう容易なことではありません。
レーニン以降のソ連邦や中国の混乱を、そのままマルクスの提示した思想や論理の敗北あるいは限界の露呈ととらえるのはあまりに短絡的であり、それほど多くはないマルクスの主要な著作(さらにいえば、エンゲルス、ルフェーブル、ドゥルーズ、ネグリ、廣松渉や柄谷行人の主要な著作)を読んでいらっしゃるのかさえ疑問に思います。
そうですね。
そういう事です。
まずは、ここから始めなければなりません。
せっかく、先人が知恵を絞ったのですからね。
アントニオ・ネグリについてはプチ熟女さんから批判が出ておりましたね。
南青山さん>いってみれば初心者ばかり集めたオーケストラでモーツアルトを聴いて、楽曲を否定するようなものです。
その通りです。
耳が痛いです。
南青山さん>とはいえ、マルクスの著作を金科玉条のように唱えていれば、「経済苦から自殺者が年々多くな」るような現代社会が直ちに改善されるのかといえば、もちろんそんなことはありません。
これはそうですね。
従って、我々は現にある問題解決策も模索しながら社会の基本構造の解明をしなければなりません。
自殺者の問題は明らかに小泉の「国民が痛みを伴う構造改革」の必然的帰結ですけどね。小泉が人殺しなのです。
南青山さん>どのように変えていくかは、現在を生きているわれわれに課せられた課題です(マルクスは同時代のさまざまな事象に対しては対処法を提示していますが、さすがに一世紀以上離れたわれわれの社会についてまで言及していません)。
当然の事です。
南青山さん>ただ、繰り返しになりますが、小生はマルクスの残した思想や論理は(すべてとはいいませんが)、この世界をよりよいものに変えていく原理と方法を考える上で十分役立つ、まだまだ使い出のあるものだと思えます。
その事をもっと私も理解する為にマルクスを読みたいと思います。
【マルクス/エンゲルス『[新訳]ドイツ・イデオロギー』】
http://homepage3.nifty.com/civilsocietyforum/page055.html
マルクス/エンゲルス『[新訳]ドイツ・イデオロギー』
新日本出版社
要約:岡林信一
序文
「人間たちは、これまでいつも、自分自身について、自分たちが何であるか、あるいはなにであ
るべきかについて、まちがった諸観念をつくってきた」
→ドイツ観念論哲学への批判
<一>
・すべての人類史の第一の前提:生きた人間的諸個人の存在(pp.17-18.)
確認されるべき第一の事実:これら個人の身体的組織と自然に対する彼らの関係
人間自身は、生活手段を生産しはじめるやいなや、みずからを動物から区別し始める。
・これら(ドイツ観念論)の哲学者のだれもが、ドイツ哲学とドイツの現実との関連について、ド
イツ哲学の批判とドイツ哲学自身の物質的環境との関連について、問うことを思いつかなかっ
た(pp.21-22.)。
・様々な諸国民相互間の諸関連は、それらの国民の各々がその生産諸力、分業、内部的交
通をどの程度発展させたかに依存する(p.22-23.)。
農業労働からの工業労働と商業労働の分離→都市と農村の分離・利害対立→工業労働か
らの商業労働の分離→各分野内部の分業
分業のそのつどの段階は、労働の材料、用具、産物との関連における諸個人相互の諸関
係をも規定する(部族所有、古代的な共同体所有・国家所有、封建的・身分的所有)。
・特定のやり方で生産的に働いている特定の諸個人は、これらの特定の社会的、政治的な諸
関係を結ぶ(p.26.)。
諸思想、諸観念、意識の生産は、さしあたり直接に、人間たちの物質的な活動と物質邸な交
通=現実的生活の言語の中へ編み込まれている。人間たちの観念作用・思考作用=精神的
交通は、ここではまだ彼らの物質的振る舞いの直接的な流出として現れる(pp.2 6-27)。
道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギー、これらに照応する意識諸形態は、独立して
いるという外観をこれ以上保てない。これらが歴史をもったり、それらが発展をもったりするの
ではなくて、自分の物質的生産と自分の物質的交通を発展させる人間たちが、この彼らの現
実とともに、彼らの思考と彼らの思考の諸産物をも変えるのである。
意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する(pp.27-28.)。
<二>
・「解放」は歴史的な事業であって、思想の事業ではない(p.30.)。
フォイエルバッハの感性的世界の「把握」は、一方では、それの単なる直感に、他方では単
なる感覚に限られており、「現実的で、歴史的な人間」のかわりに「人間というもの」を置く(p.
31.)。
・分業の発展
性行為における分業→自然的素質(たとえば体力)、諸欲求、偶然などによってひとりでに、
あるいは「自然成長的に」生じる分業→物質的労働と精神労働との分割
この瞬間から、意識は、現存する実践の意識とは何か異なるものであるかのように、何か現
実的なものを思い浮かべることなしに現実的に何かあるものを思い浮かべるかのように、実際
思いこむことが出来る(pp.39-40.)。
・個々人または個々の家族の利害と共同的利害との矛盾
人間たちが自然成長的な社会にある限り、したがって、活動が自由意志にではなく自然成長
的に分割されている限り、人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこ
の力を支配するのではなく、この力が彼を抑えつけるという事である(p.45.)
・分業の廃止
各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達
させることが出来る共産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそ
のことによって私は、今日はこれをし、明日はあれをするということができるようになり、狩人、
漁師、牧人、あるいは批判家になることなしに、私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午
後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をするということができるようにな
る(p.45.)。
・世界史の展開とは
「自己意識」、世界精神あるいはほかの形而上学的妖怪の単なる抽象的な行為などというも
のではなくて、まったくの物質的な、経験的に証明できる行為、あるがままの、食べたり、飲ん
だり、衣服を着たりするような各個人がその証拠を提供する行為である(p.48.)。
・共産主義革命
革命が必要なのは、支配階級が他のどんなやり方でも打倒され得ないからけではなくて、打
倒する階級が、革命のなかでだけ、すべての旧い汚れをとりさり、そして社会を新たに築く能力
を持つようになるところにまで、達しうるからでもある(p.50.)。
◎マルクスのメモ
・普遍的交通による局地的共産主義の廃棄
共産主義は、経験的には、ただ支配的諸国民の事業として「一度に」かつ同時に可能なので
あり、そのことは、生産諸力の普遍的発展とそれに結びついた世界交通を前提とする。
・現実的運動としての共産主義
共産主義は、われわれにとって、つくりだされるべき状態、現実がしたがわなければならない
理想ではない。われわれが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を廃棄する現実的運動である。
この運動の諸条件は、いま現存する前提から生じる。
<三>
・支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。
社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である。物
質的生産のための諸手段を自由にできる階級は、それとともに精神的生産のための諸手段
を意のままにするのであるから、それとともに、精神的生産のための諸手段を欠いている人々
の諸思想は、概してこの階級の支配下にある。支配的な物質的諸関係の観念的表現(p.59.)。
例えば、諸権力の分割(三権分立)
・自由、平等
自分より先に支配していた階級に取って替わるどの新しい階級も、その目的を遂行する た
めだけでも、その利害を社会の全成員の共通の利害としてしめさざるを得ない、すな わち、
観念的表現すれば、その諸思想に普遍性の形式を与え、それらの思想をただひと つ理性的
で、普遍妥当的な諸思想としてしめさざるを得ない(p.61.)。
・日常生活では、どんな小売商人でも、ある人が自分はこうであると称するところと、彼 が実
際にそうであるところとを非常によく区別することができるのに、われわれの歴史 記述は、ま
だこのありきたりの認識に達したことがない。その歴史記述は、それぞれの 時代がそれ自身
について語り、思い描いていることを、その言葉通りに信じる(pp.63- 64.)。
<四>
・生産諸力と交通形態とのこの矛盾は、諸衝突の総体、様々な階級の諸衝突、意識の矛盾、
思想闘争、政治闘争などといった、様々な副次的形態をとった(p.81.)。
・分業の廃止→共同社会の実現
共同社会においてはじめて、各個人にとって、彼の諸素質をあらゆる方面へ発展させる諸手
段が存在するのであり、共同社会においてはじめて人格的自由が可能になる。共同社会のこ
れまでの代用物=国家などにおいては、人格的自由は、支配階級の諸関係のなかで育成さ
れた諸個人にとってだけ、そして、彼らがこの階級の諸個人であった限りでだけ、存在し
た。・・・真の共同社会においては、諸個人は、彼らのアソシエーションのなかで、またアソシエ
ーションをとおして、同時に彼らの自由を獲得する(p.85.)。
・革命的プロレタリアたちの共同体の場合には、共同体に諸個人が諸個人として参加する。
諸個人の自由な発展と運動の諸条件をその制御のもとにおく諸個人の結合(p.pp.88-89.)
・共産主義がこれまでの運動から区別されるのは、それが、これまでの全ての生産諸関係 と
りわけ交通諸関係の基礎をくつがえし、すべての自然成長的な前提を、はじめて意識的にこれ
までの人間たちの所産として取り扱い、それらの前提の自然成長性をはぎ取り、そして、結合
した諸個人の力に服させる点においてである(p.89.)。
・法律は、意志に、しかも、それの現実的土台から引き離された意志である自由な意志にもと
づくかのような幻想が生ずる(pp.101-102.)。
◎市民社会概念
「これまでのすべての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またそれを再
び条件づける交通形態は、市民社会であり、・・・。この市民社会があらゆる歴史の真のかまど
であり舞台であるということ、また、現実的諸関係を無視し、大げさな政治劇に限定されたこれ
までの歴史観がいかにばかげたことかということである。」(pp.46-47.)
「この歴史把握は、次のことに基づいている。すなわち、それは、現実的な生産過程を、しか
も直接的生活の物質的生産から出発して展開すること、しかも直接的生活の物質的生産から
出発して展開すること、そして、この生産様式と結びつき、それによって生み出された交通形
態を、したがって市民社会をその様々な段階において歴史全体の基礎として捉えること、そし
て、市民社会を国家としてのその行動においてしめし、かつ、宗教、哲学、道徳などという意識
の全ての様々な理論的な産出物と形態を、市民社会から説明し、それらの成立過程をそれら
から後づけることであり・・・。」(pp.50-51.)
「市民社会は、生産諸力の一定の発展段階の内部における諸個人の物質的交通全体を包
括する。それは、ある段階の商業的および工業的な生活全体を包括し、その限りで国家と国
民を超える。・・・・市民社会という言葉は、所有諸関係がすでに古代的および中世的な共同体
から抜け出していた18世紀に現れた。市民社会としての市民社会は、ようやくブルジョワジー
とともに発展するが、しかし、あらゆる時代に国家およびその他の観念論的上部構造の土台
をなしていて、生産および交通から直接に発展する社会的組織は、たえず同じ名前で呼ばれ
てきた。」(p.100.)
「国家は、支配階級の諸個人が彼らの共通の諸利害を貫徹し、ある時代の市民社会全体が
総括される形態」(p.101.)