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(回答先: Re: 連合赤軍は段々と観念論に陥っていったと考えます。形而上を取らせていただきました 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 7 月 11 日 08:48:33)
縄文ビトさん、
下記の辞書の定義からすると
形而上学は
「精神や本体など、形がなく通常の事物や現象のような感覚的経験を超えたもの」
についての学
という事になりますが。
けいじか 3 0 【形▼而下】
〔易経(繋辞上)〕〔哲〕 時間・空間の中に、感性的対象として形をとって現れるもの。
⇔形而上
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%B7%C1%BC%A9%B2%BC&kind=&mode=0&jn.x=38&jn.y=12
けいじじょう ―じやう 0 【形▼而上】
〔易経(繋辞上)〕精神や本体など、形がなく通常の事物や現象のような感覚的経験を超えたもの。
⇔形而下
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?id=0582240-0000&kind=jn&mode=5
私が連合赤軍事件の原因について彼等が形而上学に陥ったと述べたのは
彼等が現に存在する生身の人間を理解せず
現実には存在しない「かくあるべき革命戦士」のイデアの下に現実の生身の人間を断罪し虐殺したと考えたからです。
感覚的経験を超えたものによる断罪です。
この事が言いたかったのですが、ご理解いただけませんでしょうか?
>Re: 連合赤軍は段々と観念論に陥っていったと考えます。形而上を取らせていただき>ました
>http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/415.html
>投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 7 月 11 日 08:48:33: egUyw5BLxswRI
>(回答先: 連合赤軍は段々と観念論(形而上学)に陥っていったと考えます。 投稿者 >ワヤクチャ 日時 2005 年 7 月 09 日 22:54:38)
>ワヤクチャさん今朝(月曜日朝)読ませていただきました。私は土日は休みますので>インターネットのつながらないところにいます、そのことでメールを開けるのが月曜>日になってしまいます。
>またはっきりとした文章を書きたく少し時間をください。
どうぞ。
>ただ言えますことはワヤクチャさんは形而上を何か勘違いしているようです。
そうですか?
どのように?
>形而上の認識を得るというのは、形而下の認識の上を行くものです。
上という感覚では無く、「形が無いものに関する」考察というような感じでは?と思いますが。
>現在でも多くの知識人が形而上を観念論として観ているようですが、一度哲学者によ>って出されたそのときの形而上の認識論は、出されたときから、他の人がそれを受け>取ったときそれは形而上とはならなくなり、単に形而下の知識でしかありません。
そうでしょうか?
神や魂についての言説はいつまでたっても形而上学だと思いますが。
>魂・神・空間・時間等それ等はソクラテス・プラトン・アリストテレス等の形而上学>は2300年程前のものであり、現在では心理学・生物学(進化論)天文学(天動説>と地動説)等により科学的に解明され、それらを追及する学問を形而上学とはなりえ>ません。
神について追求する学が形而上学では無いのですか?
神は科学的に解明できるものですか?
科学という言葉も問題ですが。
>そしてワヤクチャさんの言っていることはそれらを踏まえたうえで科学的でないもの>を形而上学として考えているのではないでしょうか。
「科学的」という言葉は大問題です。
何が科学か?です。
貴方はどう思われますか?
マルクス主義の中にも科学という言葉がありました。
しかし、内容は曖昧です。
>しかし現在でも実証されないものは科学的でないということから形而上学的なものは>何もないという風潮がありますが、それは実際とは少し違います。
実証されないものを「形而上学」の研究対象としているのでは?
と思うのですが。
「革命家はいかにあるべきか?」なんてのも形而上学だと思います。
「革命的警戒心が革命家には必要だ。」だなんて別の投稿で書いてしまいましたが。
>実証・または証明されなくても、論理的に導きだされるもので有るならばそれは形而>上の問題であると言うことが出来ます。
それはそうですね。
「宇宙がどうなっているのか?」なんて問題は論理でしか語られていないと思います。
物理学の研究成果から論理的に導き出された話でしかありません。
五感の外です。
>ただしあくまでもそれは認識論ですから。最初にそのことを考え付いた人だけが、ま>たその問題でより認識を深めていく人だけが形而上を理解しているということになり>ます。
そうです。
「革命戦士はかくあるべき」なんて考えの正しさは立証の問題では無く
個人個人がこの問いにどう答えるのか?
という選択の問題であるに過ぎません。
「革命家だってセックスしてもいいでないか?」という考えは
そうでは無いと選択した人間にとっては異端の考えにしか過ぎません。
革命家の論理(イデア)によって現実の人間が殺されたのです。
>これは形而上だよといってある問題を提起した人は彼なりの論理性を組み立てて提起>しているのであり、また違う角度からその問題を提起できるということです。
>その人から出された解答を知識として受け取った人は、それはもはや形而上ではなく>形而下の認識でしかありません。
この移行の論理が分からないのですが。
>端的に言うならば、最高の形而上は、全ての問題を理解し、認識として持ち、そして>最後にそれ等を総合して出した解答『人間とは何か』それが最高の形而上的認識論で>す。
「全ての問題を理解する事」は不可能でしょう。
「私は全てを理解した。」というのはウソです。
それは自分が生きながらにして神になったと言っているようなものです。
また、「全ての事を理解した。」という立証も不可能です。
そんな事を言い出す人間を私は信用しません。
>ワヤクチャさんは出せますか。
そういう解答を得ようとする事自体が間違いです。
>頂いたメールの返信はこれから書かせていただきます。
どうぞ。
人間とは意識を持っている生物であり、
意識内容は非現実的になる事もある。
以上が私の人間理解です。
意識内容の中には言葉の部分がありますが
言葉によって構成された世界観は現実そのものでは無いです。
人間は地球が宇宙全てを実感する事はできません。
言葉などの補助手段によって推測しているだけです。
人間とは宇宙の中でそのような不完全な存在であるに過ぎません。