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(回答先: ミシェル・フーコーと権力論 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 6 月 15 日 10:06:11)
ミシェル・フーコー氏は、「主体」、指し示しの主体、「やじるし ⇒」の付け根部分、常に、この部分に用心が必要と言っているにすぎない。
言葉が、権力性、支配性を持つ、というのも、「言葉」の主体(個人レベルから、国家レベル、古代からの哲学的意味に於ける「神話性」=支配まで)に、注意を向けろと言っているだけです。
それは、如往さんが示された“思惟過程(意識)の対象化”と言う表現の方が、より、簡潔に、ミシェル・フーコー氏の意図を表していると思います。
また、この立場は、デカルトやカントなど、或いは、現象学の「エポケー」などの基礎の上に言及されているもので、「対象の対象化」という矛盾についての、ギリシャ以降の哲学の基本問題を踏まえて、「その所与の主体こそ権力によって形成された」と言っているのです。早川氏は、これを自分の発見のように捉えている書きぶりですが、こんなことは、当然、千年以上前から、哲学の基本問題です。
この問題に、足を踏み入れないで、現実の世界、生活世界の問題を、まず、解決しようと言うのが、ポスト・モダンの立場です。
権力が、其処にある。武力を持っている。非権力者に、差し迫った脅威が在る。
この状態の時に、「現実に向かってくる兵士に命令している50KMも向うの指揮官を、誰が、その指揮官ですか、と聞きに行く議論が我々の生活に必要でしょうか?」
ミシェル・フーコー氏は、この欺瞞に、怒りをブッツケテいるのです。
早川氏は、ミシェル・フーコー氏の主張の本旨を理解して、その時代的背景を考えて、研究される必要が在る、と思います。
「まず、生きて、しかるのちに、哲学せよ」