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(回答先: 抽象的権力論は誤りであり、我々は権力をその具体性において評価しなければならない。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 15 日 17:29:10)
ワヤクチャさん、こんにちは。
相変わらず縄文ビトさんはワヤクチャさんの論旨を取り違えているようです。おそらく、ワヤクチャさんの尽力を以ってしても溝が埋まる見込みはないかも知れません。
ワヤクチャさんはこれまでにも一貫して対抗的権力の構築を主張されていますが、私はそれが民主主義の健全性を担保もしくは醸成していくためには不可欠であるとの基本認識を含めて支持したいと思っています。
ただし、固よりワヤクチャさんは楽観視されてはいないでしょうが、対抗的権力の構築にはここ日本では相当な困難性を伴なうものと推察されます。「どうして対抗的権力が必要なのか」と、問う日本人は数多いかも知れません。反権力(Anti反動)の側と見做される人達の間でも同様な問いが繰り返される中で、自分達が民主主義の健全性を担保していくべき主体であること、すなわち当事者意識が希薄な人々を受容し啓蒙して対抗的権力を構成するのは容易なことではないでしょう。現状はやはり自治体や企業体において実験的にモデルケースを打ち立てていく他に策はないのかも知れません。
しかしながら、同時並行的にマクロ的なレベルでの対抗的権力の在り様を探究していく営為は重要であると思っています。『経済学・哲学草稿』でマルクスは既成権力や次世代の権力の台頭に対し、生産主体が権力を握ることの正当性を説こうとしたと読み取ることができるでしょう。それは来る資本主義社会において生産主体の生存の自立性を援護しようとする当為であったと思います。そして、そのヴィジョンが共産主義社会体制であったのですが、レーニンをはじめ引き継いだ人達がそれを政体論として如何に結実させていったのか、その成否の模様と事の顛末はご周知の通りです。
ところで、今日においても生産主体の生存の自立性確保が権力論と切り離しては捉え切れないことや、さらに究極的にはヘゲモニーをめぐる経済主体と生産主体の間での凌ぎの削り合いという構図には何ら変わるところはないでしょう。ただ、それを経済主体が認識している以上には、生産主体が意識できていないことが戦前戦後を通じて現在に至る日本を象徴する問題の要因になっていると想われます。何故意識できなかったのか、その原因には、日本人が市民革命を経験していないこと、明治政府による国民の天皇制への誘導という政策が奏効して市民権にたいする国民の覚醒が抑制されたこと等が挙げられるでしょう。そして、その余波は相変わらず戦後も日本人の意識形成に影を落とし続けています。
生存の自立性確保は本来的に左翼右翼の別なく生産主体にとっての中心課題であるはずです。少なくとも私は階級闘争を軸にしてこの問題の解決を図ろうとは考えてはいませんし、[Associate socialism]をはじめ様々な方法を模索していかなければならぬと思っています。ただし、私達は何れ“権力”の把捉や制御といった問題に直面せざるを得ず、経験不足を理由に免れることはできないでしょう。そのときにこそ、否、それまでにワヤクチャさんが志向されているように、先ずは広汎な対抗的権力の構築を果たさなければ、日本においても人類の人間家畜化の進行を防止することができないと憂慮しています。
道遥かではありますが、めげずに互いに信じるところを目指してやってゆきましょう。
また、会いましょう。