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(回答先: ミシェル・フーコーと権力論 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 6 月 15 日 10:06:11)
縄文ビトさん、貴重な資料ありがとうございます。
>ワヤクチャさんあなたの基盤としているミシェル・フーコーの権力論ですが、まだ多>くの問題を抱えているみたいです。以下は別の方が書いた書評ですが書き込みを入れ>ておきます。
>「ミシェル・フーコーと権力論」要旨
>1993年12月提出修士論文
東京大学大学院法学政治学研究科
修士課程 早川 誠>>http://www.geocities.jp/collegelifecafe3666/masthes.htm
>フーコーの権力論が主体を抑圧せずに生成させるものであるとすれば、
ここで、主体を抑圧する機能としての権力論と
主体の要求を実現する手段としての権力論という異なる権力論が提出されている事に注目する必要があります。
しかし、「Aという主体がBという主体に命令する。」という権力という意味では同じ事です。
同じ作用を逆の方向から述べているに過ぎません。
>現代政治学の権力論との相違は明らかである。
「現代政治学の権力論」という言葉によって何を意味しているのかは不明です。
>先述の通りゼロ・サム的権力観も権力を合意達成能力とする見方も主体を所与として>いる。
この文章は私には分かりません。
【ゼロ・サム的権力観】
【ゼロ・サム】
勝者に対しては必ず敗者のいるゲーム
ゼロ・サムとは何か 40年前の米国経済に学ぶ
ゼロ・サム社会とはスポーツ試合のように勝者に対しては必ず敗者のいるゲームと化した社会である。ギャンブルでは勝った人間が手にいれるものを、敗者が失われざるをえない。(胴元の手数料は除く)
サロー教授が本書でこの理論を提唱して、経済学界でこの用語が認知された。本書は70年代の米国の飽和した先進産業国にゼロサムの徴候を見出し、原著の副題である「分配と経済変化の可能性」が唄っているように、ゼロ・サム社会では仮に社会の経済利得が増加したとしても、それは平均値という統計の示すものであって、富めるものがより豊かに、貧しいものがより貧しくなる事を隠微する危険性を示唆している。
本書は一般市民を読者と想定し、インフレ、低成長、環境などがどうゼロ。サム社会に影響を与えるかという分配の公正性について議論をしている。70年代のアメリカの時事・世相を題材としてわかりやすく解説をしているが、翻訳書である事もあり、現代の日本の一般読者には、決して読みやすいとはいえない。
しかしながら、ゼロ・サム社会は米国固有の現象でなく、先進国である日本でもすでに直面している事実である。
各論に関してはインフレが貧しいものにはより負担を強いるものであると結論していて、確かにハイパーインフレを起きたアルゼンチン、韓国ではその事は実証されたとは思うが、デフレの続く日本でも二極化は進んでおり、インフレだけが要因になっているとは言えないだろう。逆に考えればハイパーインフレではもっと経済の深刻化が進むとも解釈できる。
富の分配の妥当性、インフレにととまらず、環境問題も含め、本書の理論予測は今後の日本でもオープンイシュー(解かれてない課題)となっており、輝きを失っていない。
皆さんのクリックが励みです→人気本・読書blogランキング ありがとうございました。
http://kaz0775.cocolog-nifty.com/kaz0775/2005/02/post_2.html
>フーコーの権力論はその所与の主体こそ権力によって形成されたのだと論じているの>である。しかし、このように論じることでフーコーの権力論は自由論の領域に困難な>問題を持ち込むこととなった。
この意味も不明。
>ゼロ・サム的権力観が恣意的権力からの解放の自由を、合意を旨とする権力観が権力>の行使による自由を主張するのに対して、そもそも権力以前の主体を否定したフーコ>ーには自由の基盤が存在しない。
フーコーは全ての主体は権力によって存在していると言ったのか?
自由とは権力からの自由であるとこの論者は言いたいのだろが、権力から自由を得る為には自由になる為の力が必要なのでは無いか?
>この問題に対し、権力の「外部」の存在をほのめかす論考もあるが、その議論の展開>は不十分である。
意味不明。
>だが、「外部」を措定しない自由をフーコーは論じている。「抵抗」としての自由で>ある。遍在する権力の作用を逆用して内部から常に抵抗し続けること。外部への解放>を目指すのではなく、内部の態様の変化をもくろむこと。そのような常に「抵抗」し>続ける姿勢がフーコーにとっての自由なのである。
この意味は何となく分かります。
> 第3章ではこのような自由論の基礎となるべき方法論を扱う。「抵抗」としての自>由の主張も、もしその主張の基礎である方法論自体が権力の作用を受けたものである>とすれば、曖昧な正当性を持つにすぎない、ということになる。
「既存の権力に対して対抗的権力によって自らの生活の自由を得る」という観点がこの人には無いのかも知れません。
それは、あらゆる権力行使を権力一般として抽象的に把握するからでは無いか?
>この点に関して、「考古学」も「系譜学」も確固とした議論を提供しえなかった。
これは原書に当たるしかない。
>「外部」を措定しようとする試みも説得力に欠けている。
意味不明。
>こうした中、晩年の研究領域である「倫理」の位置づけが問題となろう。彼のそれま>での研究領域を大きく遡り古典古代に目を向けたことは、方法論の基礎を提供するよ>うな非近代の理想的主体の発見を目指してのことだったのだろうか。しかし、フーコ>ーは現代の問題の解答を過去に求めることはできないと言う。やはり古代ギリシア・>ローマ哲学の主体も権力の作用を逃れることはなく、ただ現代の問題構成との類似性>という点で彼の注目をひいたにすぎなかったのである。こうして、フーコーの権力論>は彼の研究生活全域を覆い尽くしている。従って、彼の議論自身が権力作用を受けて>いるのではないかという自己言及性の問題も、解決の糸口を見出だせないままである>と言えよう。しかし、ポスト・モダンの議論の不毛性に対してしばしばなされる批判>を鑑みれば、フーコーの議論はポスト・モダンの絶対化を回避して活力を維持するこ>とを可能にしているとも考えられる。この現代という時代、もし政治に創造力が求め>られているとするならば、フーコーの議論はあらゆる議論が目を向けるべき批判的参>照点を形作っていると言うことが出来るであろう。
今一、意味が分かりません。
早川誠さんの他の論文も読んでみる事とします。
【「ミシェル・フーコーと権力論」要旨】
http://www.geocities.jp/collegelifecafe3666/masthes.htm
1993年12月提出修士論文
東京大学大学院法学政治学研究科
修士課程 早川 誠
「ミシェル・フーコーと権力論」要旨
本論文は、ミシェル・フーコーの権力論を整理し、その政治学に対する影響を明らかにしようとするものである。その際に、彼の主体論を軸に権力論を再構成するよう努めること、現代政治学における権力論との比較から彼の自由概念を検討すること、方法論を考察することで晩年の思想にまで一貫した解釈を与えること、の三点に特に留意した。
第1章では、「主体」に対するフーコーの歴史的分析を考察する。フーコーによれば、主体は各時代に固有の特徴を持った歴史的存在であるという。その前提となるのが、彼の「エピステーメー」の概念である。「エピステーメー」は各時代の認識の態様を特徴づけ、いくつかの断層を示しながら進展する。従って、その中に生じてくる認識主体も「エピステーメー」内の様々な言説に貫かれているのである。この論議の中心は、近代が生み出した歴史的主体、「人間」という主体に対する批判である。そしてこの認識主体としての「人間」への批判は、当然ながらそれと同一の場にある実践の主体にも反映されてくることになる。フーコーは、『狂気の歴史』の中では、いかにして狂気が排除され、より厳密な区分に服するようになるか、を詳述した。また、『監獄の誕生』においても、表面上は「人間的な」近代の刑罰がいかに巧妙に権力の作用に裏打ちされているか、を明らかにした。『知への意志』でも、性の領域で主体が権力に攻囲されていく様が描かれている。こうして、近代の主体たる「人間」と権力の関係がフーコーの議論の中心軸を形成するのである。一方、権力は主体に対して作用する唯一のものではない。主体に対しては、生産・記号体系・権力・自己の四つの主要なテクノロジーが重複して影響を与えている。その中でフーコーが権力のテクノロジーに焦点を当てるのは、現代を権力の過剰の時代と考えるからである。こうして、通時的にも共時的にも主体論が権力論と密接な関係を持つことが明らかになる。
第2章では、現代政治学とフーコー、双方の権力論を比較し、そこからフーコーの権力論の特質を抽出する。現代政治学の権力概念は主に二つのタイプに分類されよう。権力とはある人にある行為を意図に反して行わせることができるものである、というゼロ・サム的概念と、権力は人々の自発的な行為さらには合意による社会の目的達成能力に対応する、という概念である。前者には様々なヴァリエーションがあるが、権力の存在のためには争点の存在が前提される、という点で一致している。逆に後者の権力観では、争点の消滅こそ権力の前提であり、従って権力と暴力は厳密に分離される。ところが、こうした二つの権力論は、実は主体論の観点からは同一基盤の上に成立していると言えるだろう。権力が主体の作用として把握されているからである。前者では権力行使者と被行使者の二つの主体の対立が想定されている。後者においてもまさしく主体的な行為が問題となっている。この主体を前提とする権力観に対して、フーコーは全く異なる権力観を提出するのである。彼は、否定的な権力・抑圧的な権力というイメージを拒絶した。性の領域における「告白」の分析から導かれるのは、むしろ権力は主体を生産し、形成するものであるということである。こうした彼の権力観は、「規律・訓練」と「統治」という二つの権力の技術の分析によって論理的基礎を与えられている。『監獄の誕生』で詳述される「規律・訓練」型権力は、パノプティコンに見られるように、権力の中心を不可視にすることでその作用を自動化する。この自動化された権力により、個々人は近代の「人間」にふさわしい存在となるのである。近代は、この権力が普遍化することによって形成された「規律・訓練的な社会」であるというのがフーコーの結論である。一方、個々人ではなく人間という種全体を標的とする権力も出現した。近代国家の形成とともに展開した「統治の技法」に関する著作は、「国家理性」の概念を経て、「人口・住民」と「ポリス」の両概念の登場により現実へと媒介される。そこでは社会あるいは国家の内在的な力の発展が要請され、そのために権力が「人口・住民」に特有の要素、衛生・出生率・死亡率などの調整を企てるのである。もっともこれは規律・訓練型の権力を手段として取り込みながらであって、両者は相互に排他的なものではない。こうして、フーコーの権力論が主体を抑圧せずに生成させるものであるとすれば、現代政治学の権力論との相違は明らかである。先述の通りゼロ・サム的権力観も権力を合意達成能力とする見方も主体を所与としている。フーコーの権力論はその所与の主体こそ権力によって形成されたのだと論じているのである。しかし、このように論じることでフーコーの権力論は自由論の領域に困難な問題を持ち込むこととなった。ゼロ・サム的権力観が恣意的権力からの解放の自由を、合意を旨とする権力観が権力の行使による自由を主張するのに対して、そもそも権力以前の主体を否定したフーコーには自由の基盤が存在しない。この問題に対し、権力の「外部」の存在をほのめかす論考もあるが、その議論の展開は不十分である。だが、「外部」を措定しない自由をフーコーは論じている。「抵抗」としての自由である。遍在する権力の作用を逆用して内部から常に抵抗し続けること。外部への解放を目指すのではなく、内部の態様の変化をもくろむこと。そのような常に「抵抗」し続ける姿勢がフーコーにとっての自由なのである。
第3章ではこのような自由論の基礎となるべき方法論を扱う。「抵抗」としての自由の主張も、もしその主張の基礎である方法論自体が権力の作用を受けたものであるとすれば、曖昧な正当性を持つにすぎない、ということになる。この点に関して、「考古学」も「系譜学」も確固とした議論を提供しえなかった。「外部」を措定しようとする試みも説得力に欠けている。こうした中、晩年の研究領域である「倫理」の位置づけが問題となろう。彼のそれまでの研究領域を大きく遡り古典古代に目を向けたことは、方法論の基礎を提供するような非近代の理想的主体の発見を目指してのことだったのだろうか。しかし、フーコーは現代の問題の解答を過去に求めることはできないと言う。やはり古代ギリシア・ローマ哲学の主体も権力の作用を逃れることはなく、ただ現代の問題構成との類似性という点で彼の注目をひいたにすぎなかったのである。こうして、フーコーの権力論は彼の研究生活全域を覆い尽くしている。従って、彼の議論自身が権力作用を受けているのではないかという自己言及性の問題も、解決の糸口を見出だせないままであると言えよう。しかし、ポスト・モダンの議論の不毛性に対してしばしばなされる批判を鑑みれば、フーコーの議論はポスト・モダンの絶対化を回避して活力を維持することを可能にしているとも考えられる。この現代という時代、もし政治に創造力が求められているとするならば、フーコーの議論はあらゆる議論が目を向けるべき批判的参照点を形作っていると言うことが出来るであろう。
【立正大学法学部政治学原論講座を担当している早川誠です。】
http://www.geocities.jp/collegelifecafe3666/
【「ニッポン言論のタネ本15冊+α フーコー『監獄の誕生』」『論座』2002年6月号
】
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/foucault_ronza.htm
人の主体性というものこそが権力の産物だということ。
そしてお話ししたい第二のポイントは、少し抽象的になりますが、そういう意味でのフーコーの読み方の指針、であります。フーコー権力論に対してかつてマルクス主義が健在だったころによくなされた批判は「フーコーの言うとおりだったら人間の主体性さえも権力の産物だってことになる。じゃあ一体、権力に対する抵抗はどこからやってくるんだ? フーコーは口先では「権力への抵抗」を口にするけど、その根拠がどこにあるのか全然論じてないじゃないか!」というようなものです。で、実はこの批判、疑問に対するしっくりくる回答を提示してくれている人はあんまりいないんです。にもかかわらずマルクス主義がぽしゃったおかげで、相対的にフーコー権力論のステイタスが上がっている。これは不健全ですから、何とかしなきゃならない。
このようなフーコー批判はもちろん、自分を反権力、権力に抵抗する側に置いているからこそ出てくるわけです。そしてこういう批判者は(1)反省能力が極度に欠けている場合「フーコーは私のような反権力の存在を説明できないからナンセンス」と否定して終わり。これは問題外ですが、普通は(2)「たしかに自分でも気づかないうちに体制に荷担してしまっている危険が常にあることは認める。しかし気をつければそのような落とし穴をまぬかれる方法があるはずだ(ないと困る)。だけどフーコーはそれを教えてくれない!」という不満をもらす、でしょう。
ここで発想の転換が必要です。自分をまさに権力者の側においてみるんです。フーコー的な意味では誰だって多少は権力者でしょ、それも飼いならされた左翼の「批判という名の荷担」なんてややこしい形でなく、もっとストレートに。例えば職場で、部下や取引先に対して、あるいは家庭で子供に対して。あるいは一念発起、体を鍛えようとかタバコをやめようとかしてみた場合。そうすれば見えてくるじゃないですか、そこにある「抵抗」とその主体が! 言うことを聞いてくれない他人が、意思の弱いもう一人の自分が!
支配権力に抗する「人民の権力」を標榜したマルクス主義の悪が明らかになって以降、批判的な正義の立場に立つためには「反権力」に徹するか、せいぜい「権力の極小化」を言うにとどめておくしかない、という雰囲気がありました。しかしフーコーの権力論が示唆するのは、別の問題の立て方――「権力・対・反権力」ではなく、「権力の謙虚でエレガントな使用・対・権力の傲慢で野蛮な使用」ではないか。最近ぼくはそう考えています。権力を振るったときに生じる、自らの無意識と身体を含めた「他者」からの「抵抗」に対して謙虚であること、その意味をそれぞれの現場で具体的に考えていくこと。これが今日、フーコー権力論を読む意義ではないでしょうか
【ワヤクチャ】
この辺の考え方も権力をのっぺらぼうな「権力一般」として捉えているからこうなるのだと思います。「人民の権力」の悪とは「人民を標榜する官僚」の悪であって、人民の利益を真に代表する権力を形成する事ができるからばそれは悪では無いのです。
【権力について考える】
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/meiji98.html
【自発的服従論】
http://www.socius.jp/lec/19.html
【ワヤクチャ】
まあ、すこしずつ勉強していきましょう。
権力論は奥が深いですなあ。