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(回答先: 権力は支持によって形成される。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 6 月 13 日 13:51:53)
>課税というのは明確に権力の行使です。
>有無を言わさず徴収するのですから、これを権力から除外していては現在の世界の権力を正し>く評価する事はできません。
>権力は立法・行政・司法の3つにわたって相互に連動しながら総体として作用しているので
>す。メディアも4つの目の権力であるし、言論活動も権力の一角を占めているのです。
なるほど。
>【フーコーの権力論】
>0) 力(権力)の構造(『性の歴史1』)
>権力は、上から支配する圧力ではない。あらゆる所で、その場の関係から生ずる力を利用して>働く、内在的力である。
>権力は、無数の点から出発し、不規則な一定しない諸関係によって成立するゲームの中で機能>する。
>権力の諸関係は、経済、学問、性といった現象が生み出しれいる諸関係の外にあるものではな
>く、そうした諸関係の中に作りだされているものである。
>権力は、下部からくる。支配する者、支配される者という古典的な二項図式は否定される。
>社会の基盤にある家族や社会、サークルなどの小集団の中に生み出される力の関係が、全体
>を統括する権力関係の基盤となる。
>権力をふるうのは、特定の個人でもなく、特定の司令部でもない。あくまでも、諸関係の中
>で、その作用によって権力が行使されるに過ぎない。
>権力の外部に抵抗があるのではなく、抵抗は、あくまでも権力の内部にある。一つの固定した>抵抗の拠点があるのではない。
目からウロコです。私は権力というものをお上・行政として捉えすぎていました。
>あくまでも、諸関係の網の目の中で、不規則に発生するのが、抵抗であり、権力は、この不規>則な抵抗を完全に排除することは出来ない。そして、この抵抗点が、戦略的に結び付けられて>作動したとき、革命が可能になる。(引用は、桜井哲夫 『フーコー』から)
なるほど。
>【「ミシェル・フーコーと権力論」要旨】
>【国家・民族・世界社会】
>(2)大衆社会現象と国家権力の変貌
>*生産手段の所有/非所有から、権力の格差へ重点が移ってきた。
> 「権力」は、現代社会の深層を読み解く重要な鍵の一つ
>*実体的権力観から、関係的権力観へ
> =人間関係のなかで、権力は権力となる。
> 実体的(道具的)権力観
>:「他者の抵抗を排除してでも自らの意思を貫徹させる力」(ウェーバー)
>実体・道具としての権力→権力の「ゼロ・サム」ゲーム論へ
> zero-sum=或る行為者が権力を取れば、他の行為者の権力はその分減少する。
>しかし、権力は「物」とは違って、こうしたゼロ・サム的あり方をするとは限らない。
>非実体的権力観の例
>*T・パーソンズの「貨幣」モデル
> 権力は、貨幣のような性質を持っている。
>貨幣の3特性
> 1)交換手段(それ自体に価値があるのではなく、交換手段としてだけ価値を持つ)
> 2)価値の尺度
> 3)価値の保存
> 権力は、物理的強制が間接化し、抽象化し、象徴化したもの。
物理的強制=物物交換
権力行使 =貨幣交換
> 権力の譲渡:選挙での投票
> 譲渡された側(政治家など)で権力を「信用創造」することもできる。
> =権力者のフリーハンド(自由裁量)の増大
>*N・ルーマンの「選択強制」としての権力
> A/非A=非B/B
大学に進学したい(A)
軍隊の召集令状がきた(非A=B)
軍隊に行きたくない(A=非B)
BがなければAは非Bにはならなかったはず。
AかBかを選ぶことを余儀なくされる。
ルーマンによれば、選択のまったくないところに権力はない。
> (暴力を振るうのは、権力が危機にある証拠)
↑権力=強制化する暴力装置ととらえていたが、かなりとらえかたが皮相だったかも知れません。
>*M・フーコーの管理権力論
社会の支配原理=所有から権力へ(管理社会化)
国家権力の変化に注意すべき。=強制と恐怖から、操作と排除へ。
M・フーコーの洞察:一望監視と規律化
> 一人ひとりを個別に管理し、自主規制を促す。
↑今日のナショナリズムが高揚する日本において、「 一人ひとりを個別に管理し、自主規制を促す。」という部分は、かなり重要な意味をなすと思います。
>【ワヤクチャ】
>上記の中で
>*実体的権力観から、関係的権力観へ
> =人間関係のなかで、権力は権力となる。
>という部分がありますが、これが私の権力観に近いと思います。
>人間関係の中で権力が形成されるという事。
>あるスローガンを掲げてそれに賛同者が集まればそれは既に権力の萌芽であるという事です。
>縄文ビトさんが「労働力の売買の禁止」のデモを行い、その賛同者を多く集めたのならそれは>紛れも無く権力として作用するという事です。
なるほど。
>例えば、現在、殺人は罪に問われるという事を皆知っているから殺人をある程度抑制できてい>ると私は考えます。
厳密には殺したいと思う人も少ないからだと思ってます。潜在的に人を殺したいサディストばかりであると、「法に罰せられないようにいかにうまく殺すか」を考え始めますが、通常の人は人を殺すより娯楽を求めます。殺すより、楽しんだり、寝たり、うまい物を食ったりしたいだけで、普通の人には殺す理由がない。では、殺す理由が普通の人にも大量にできてしまったらどうでしょうか?中国を見ると、法律では止められない面があると思います。大量に処刑している国が、死刑廃止国より犯罪が少ないとは言い難いです。
>では、殺人犯を罰するのは何でしょうか?
>法ですね。
>別に裁判官個人が罰するのではありません。
実際は法が罰しているようでありながら、ある人数までは裁判官の裁量で罰されている面もありますね。裁判官に「コイツ気に食わん」と思われたら、罪が重くなる面はあると思います。
>そのような法権力によって殺人を抑制できているという点に私は着目しているのです。
ある程度は、そうですね。
>そういう意味での目的的権力の形成を主張しているのです。
おっしゃることは大体理解できました。
>私個人が権力を持つ事を求めているのでは無いのです。
>よりよき社会の為の法や制度としての権力を形成しようと思っているのです。
>私自身もその権力に従わざるを得ないような権力です。
従わざるを得ない→もちろん、道徳的な意味でですよね。道徳的な裏付けもなく、強制される権力が今のひのきみを強制する体制ですから。徴兵に道徳的裏付けはなく、納得してなくても強制されます。現在権力を行使している少数の富裕層の部分以外にとっては、限りなく自由な体制でなければ意味はないだろうと思います。