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(回答先: 想像の共同体 投稿者 ジャン 日時 2005 年 5 月 22 日 08:56:53)
上記の引用元は、「次世代都市みらい」からでした。
http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/kokumin.html
国家と民族と言語がもともとほとんど一致してしまっている日本においては、国家有機体説や全体主義的国家論は、非常に受け入れやすいものがあります。
また、そうした全体主義的国家論から派生する地政学、地経学も島国という地理的状況から国家戦略という立場から受け入れやすいでしょう。(それに、天下国家や国際戦略を面白おかしく聞いていたほうが、何か自分が為政者になったようで楽しいでしょうし・・)
しかし、国家を生命体のようにみなすことは、国家内部においては、政府による個人への恫喝をうみ、国際的には国家間の闘争、社会ダーウィン主義による優れた民族の生き残りといった方向へ、ナチスドイツのたどった道へといきつかないとも限らない。
憲法論議に国家有機体説を持ち込むことは、近代憲法の持つ人権尊重の意義を薄める結果となる可能性があることを承知しておきたい。
ところで、全体主義に対して、無力な個人主義を対置することなど、ほとんど意味をなさない。
そのような、全体主義に対するアレルギー、ヒステリー的反応は、何の力にもならない。
多くの国家が戦争の危機を煽ることで、国内の矛盾から国民の目をそらせるのと同じように、憲法論議をとおして、このような議論に国民を深入りさせることは、国内のさまざまな社会矛盾から目をそむけ、まるで、それ以外には一切のことは許容されるような状態に導かれるからである。
階級間の非和解的産物としての国家は死滅するという考え方は、社会有機体説とも社会契約説とも全く別のものである。彼らは国家という名の想像の共同体に代えて、個人主義ではなく、労働者の国際的連帯という名の別の想像を対置する。
同様に宗教者もまた、神の国という別の共同体を対置する。
これら二つの想像は、あるときは個人主義に接近し、あるときは全体主義に接近するように見える。しかし、個人主義か全体主義かの議論は無益である。なぜなら、全体主義によって利益を得るのは、その時代の支配的階級であって、いかなる勢力が支配的であるかが問われていないからである。仮に、公明党政権下や共産党政権下であれば、現在の国家論者たちの多くは、その主張を180度転換させるであろう。それは、中国・北朝鮮を批判するのと全く同じである。
もし、憲法を論じるのであれば、国家機能の拡充についてではなく、憲法が国家権力に課す強制としての社会正義は何であるべきなのか、正義とは何かではなかろうか。