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(回答先: バートランドラッセルの言葉 投稿者 ジャン 日時 2005 年 5 月 21 日 23:09:02)
想像の共同体
「国民」 (B.アンダーソン『想像の共同体』より引用)
そこでここでは、人類学的精神で(「親族」や「宗教」を定義するように)国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンド・ポリティカル・コミュニティ)である−そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。
国民は(イメージとして心の中に)想像されたものである。というのは、いかに小さな国民であろうと、これを構成する人々は、その大多数の同胞を知ることも、会うことも、あるいはかれらについて聞くこともなく、それでいてなお、ひとりひとりの心の中には、共同の聖さん(コミュニオン)のイメージが生きているからである。
ルナンは、その想像という行為について、彼独特の穏やかで婉曲な言い回しで次のように語った。「さて、国民の本質とは、すべての個々の国民が多くのことを共有しており、そしてまた、多くのことをお互いにすっかり忘れてしまっているということにある」。
またゲルナーは、敢然と次のようなめざましい論を展開している。「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムは、もともと存在していないところに国民を発明することだ」。ゲルナーのこの規定は、少々過激であっても実は私と同じことを言っている。もっとも、この規定の欠点は、彼が、ナショナリズムとは偽りの仮装であると言いたいあまり、「発明」を、「想像」と「創造」にではなく、「ねつ造」と「欺瞞」になぞらえたことにある。そうすることで彼は、国民と並べてそれよりはもっと「真実」の共同体が存在するのだと言おうとする。
実際には、しかし、日々顔つきを合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽によってではなく、それが想像されたスタイルによって区別される。ジャワの村人は、かれらが一度も会ったことのない人々と結びけられている、ということをいつもよく承知していた。しかし、その絆は、かつては、各人に固有のものとして、個人を中心に無限に伸縮自在な親類、主従関係のネットワークとして想像された。ジャワ語にはごく最近まで、抽象的に「社会」を意味する言葉などなかったのだった。
(中略)
国民は、限られたものとして想像される。なぜなら、たとえ十億人の生きた人間を擁する最大の国民ですら、限られた国境を持ち、その国境の向こうには他の国民がいるからである。いかなる国民もみずからを人類全体と同一に想像することはない。いかなる救世主的ナショナリストといえども、かつて歴史の一時代にキリスト教徒がキリスト者だけの惑星を夢見ることができたようには、すべての人類が自分たちの国民に参加する日を夢見ることはない。
国民は主権的なものとして想像される。なぜなら、この国民の概念は、啓蒙主義と革命がヒエラルキー的王朝秩序の正当性を破壊した時代に生まれたからである。それは、普遍宗教のいかに篤信な信者といえども、そうした宗教が現に多元的に併存しており、それぞれの信仰の存在論的主張とその領域的広がりとのあいだに乖離があるという現実に直面せざるをえない時代であり、人類史のそういう段階に成熟をみた国民は、自由であることを、そしてかりに「神の下に」であれば、神の下での直接的な自由を、夢見る。この自由を保障し象徴するのが主権国家である。
そして最後に、国民は1つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万もの人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。