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(回答先: 国家主義とは・・・引用ばかりですみません。 投稿者 ジャン 日時 2005 年 5 月 21 日 23:05:16)
国家
(From: Authority and the Individual, 1949.
社会は、その構成員である個人に良い生活をもたらすためにある。社会という名の枠の全体にではなく、個人の内にこそ究極の価値は求められるべきである。
良い社会は個人に良い生活をもたらす手段であり、社会自体が別の美点を持つわけではない。
国家を一つの有機体だと言う時、一つの類推が行われる。その類推の限界を認識しないと、全く危険なことになりかねない。人間や高等動物は、厳密な意味での有機体である。善悪いかなることが人間にふりかかるにしても、それは一個人としてのその人自身にふりかかるのであって、その人のあれかこれかの一部分にではない。私が歯痛に苦しむ時、その痛みを受けているのは、私自身で、神経がその患部を私の脳髄と結合していなければ、痛みは存在しない。地方の農夫が吹雪に襲われた時に、寒いと感じるのは、首都ロンドンにある国家政府ではない。個人という有機体自身が善悪の担い手であり、個人のどの一部でも、人間の集団でもない。様々な個人の善悪の外に、人間集団の中にも善悪があると信じるのは誤りである。単なる誤りだけでなく、この類推は、直ちに全体主義の考え方に通じる危険な道となる。
国家には、単に市民の福祉の手段としてだけでなく、国家自体の美点がある、と考えている哲学者や政治家がいる。この見解に同意する理由は全くない。国家とは抽象された事柄で、快も苦も希望も感じえない。そして、国家の目的であると人々が考えているものは、実は、国家を操るその支配者個人の目的である。もっと具体的に考えて見れば、国家ではなくて、普通一般の人間以上に権力を握っている人々が考える目的である。「国家」礼賛は、現実には少数支配者とその取巻き連中が行う、彼らに好都合なように国家を操る目的で行う礼賛である。真の民主主義から考えて、根本的にこれほど不正でまやかしの説はない。