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(回答先: 依存 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 5 月 08 日 15:58:46)
ワヤクチャさんはじめまして。ほとんどROMのどうして?と申します。
ワヤクチャさんの旺盛な好奇心と探究心に触れるたびに、自分に甘い己を
省みる材料にしています。
自分は語れるほどの材料を持ち合わせていない人間ですが、高みからでは
なく、自分の生活圏の半径500メートル以内で感じた視線でひと言感想を
述べさせてください。
ワヤクチャさんは依存からの脱却を提案されていますが、それでは
いつごろから依存が見られるでしょうか?赤ん坊の時は致し方ありませんね。
幼稚園では自立と自律に重点を置いているように感じます。自立へのレールを
歩み出したかのように見える小学校の低学年の授業参観を見ると、「はい、はい」と
手をあげる姿も見受けます。ところが、中学年、高学年とあがるにつれ、校内の
各種委員会の会合で子ども達は雑談では花が咲いても、積極的に意見を述べて、
参画する態度は減っているように感じます。親の立場で授業参観に参加すると
『寄らば大樹の陰』という行動様式は、すでに10歳前後で出来上がっている
ようにと感じます。以降この姿勢が、対町内会活動、対近所つきあい、対PTA
や私的な育児サークル活動といった日常に根づいたものから、対社内改革、
対社会変革といった大きな志を伴うものに至るまで、老いるまで続くわけです。
ならば、8〜9歳の子ども達までの段階で、自分の意見をみつけ、考える喜び、
他者に向かってそれを発言してみる喜び、異なる意見でも尊重する姿勢等々を
教えてやる必要性があると思うのです。わたしは解決法のひとつに日記を書く
という事を提案します。書く以前に観察力を磨かねばならないように感じるから
です。小学校の新年度最初の授業参観で教室のかべや廊下に理科や図工の時間の
観察レポートや絵が展示されていますが、「こまかく観察しているな」と
感じるものは少ないように思います。観察なくしては、自分の意見は構成できません。
さらに言えば、観察しようとする好奇心がなくては、「見ろ」と言われても
眼に飛び込んでくる量が異なります。低学年でもすでに問題はありますが、
それでも、高学年の過度に依存して自分から冒険をしようとしない、できるだけ
失敗をさけようとする、他人の視線を気にする姿勢にくらべたら、まだまだ無邪気に
己を表明します。
ワヤクチャさんが目指す過度の依存からの脱却のキーは、小学時代にあると思うの
ですが、いかがでしょうか?