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(回答先: 小説 結城純一郎の演説 (7) 投稿者 愚民党 日時 2005 年 9 月 07 日 21:08:51)
小説 結城純一郎の演説 (8)
広島6区で選挙運動を大展開中の江堀貴之は夜、東京に帰ってきた。六本木ヒルズのマンションから東京が見える。
待っていろ・・・いまにこの帝都と日本を征服してやる・・・野望に萌えながら、貴之はウィスキーを飲んだ。
貴之は日本中からホリホリモンと愛称で呼ばれている。人間掘削機こそホリホリモンだった。
ホリホリモンは昨年、日本野球機構へと掘削機をかましたが、楽天にもっていかれてしまった。
想定内だよ、とホリホリモンはマスメディアに説明した。
今年の早春に掘削機でぶちかましたのが、ニッポン放送への仕掛けだった。掘って掘って堀続けろ・・・親会社のフジテレビが
根をあげるまで、ぶちかませ! そうホリホリモンは20代の若手専務、熊谷史に命令していた。人間掘削機ホリホリモンは
ライブ・デ・ドアのオーナー社長でもあった。
ホリホリモンの脳内からは興奮麻薬が分泌されていた。選挙運動ほど祭りの興奮度は抑揚し、脳内から興奮麻薬が分泌し
エネルギーが体に充満する。ホリホリモンは政治は企業買収ほどに興奮すると思った。癖になることは間違いなかった。
ホリホリモンの選挙事務所は尾道駅のそばにあった。握手をするたび、広島6区人からエネルギーを吸い取っていった。
改革のロゴが白抜きされた黒いTシャッツ軍団に囲まれたホリホリモンは子供に人気があった。
遠慮なくホリホリモンは子供の新鮮な未来エネルギーを握手で吸い取っていった。特に小学生の未来エネルギーは元気がついた。
ライブ・デ・ドアは東京を中心にしたマーケット戦略から、日本総体を射程に入れた戦略に転換していた。日本を征し、世界に挑戦するゲームプレイヤーこそ、ライブ・デ・ドアだった。
そのとき、首相秘書官の飯田勲から、衆議院に出馬してみないか、と誘いがあった。ホリホリモンは面白いと判断した。
さっそく、熊谷史に命じて、選挙対策室を立ち上げた。
翌日、ホリホリモンは六本木ヒルズマンション住人の期日前投票所である、麻布区民センターに行って、生まれてはじめての
投票をしてきた。マスメディア報道クルーが金魚のうんこみたいに今朝もついてきた。
「比例区は公明党に投票してきました」そうホリホリモンはカメラの前で叫んだ。
広島6区で創価学会との選挙互助協定が成立したからであった。
午後、ホリホリモンは有楽町にある日本外国特派員協会に向かった。記者会見が設定されていた。
会場には、30人ほどの外国人記者が待ち構えていた。
ーーー自民党の結城純一郎首相をどう思いますか? ロイター通信の記者が質問してきた。
「自民党から出てきた“突然変異”ですね」ホリホリモンが答えると、会場から笑い声が起きた。
「あの人は自民党を上からクーデターで新しい党に作り変えてしまったんですよ。彼の独裁が勝ったと思う」
ホリホリモンはそう説明した。
ーーー広島6区で争っている亀田さんをどう評価していますか?
「あの人は共産主義者ですよ。亀田さんは旧来のばらまき型政治の象徴。そんな亀田さんを選んでどうするんですか。
今の日本は破産寸前。それを助長している象徴は亀田さん。白黒はっきりさせたい。郵政民営化反対派は壊滅しますよ」
ホリホリモンはキッパリと宣言した。
ーーー皇室も民営化すべきだとお考えですか?
「天皇制は象徴ですけど、権力もないし、それほど前面にもでてこないし、
憲法が、天皇は日本の象徴である、というところから始まるのには違和感がありますね。
歴代の首相や内閣が、象徴天皇制を、何も変えようとしないのは多分、右翼の人たちが怖いからじゃ、ないですか。
日本の国家体制は大統領制にした方がいい。特にインターネットが普及して世の中の変化のスピードが速くなっている。
リーダーが強力な権力を持っていないと、対応していけないのが21世紀ですよ。
日本を変えようと思ったら、自分が大統領になるのが一番の近道です。
国民が直接選挙で選べる制度に変えていかないといけない。大統領制にした方がいい。
日本の議院内閣制には問題がありますね。政治家に優秀な人材が入ってこない。世界的に優秀な政治家が出てこない。
そういう状況を私は変えたいんです」
ホリホリモン節はとどまるところを知らなかった。
外国特派員協会による記者会見が終了し、ホリホリモンは東京駅から広島行きの新幹線に乗った。
なにもかもが古い体制のままだ、何も更新されずによどみながら腐ろうとしている、ホリホリモンの感覚スピードから
見ると日本はどうしよもなく、腐食に安住していた。亀田をなんとしても落としてやる、決意がみなぎった。
ホリホリモンはどこでも眠れる体質だった。
JRの列車弁当を食べると、そのまま眠りについた。名古屋駅で目を覚ましてしまった。ホリホリモンはウィスキーを
飲みながら、バックから本を取り出した。睡眠誘導のために読み出したのは、アンダーグランド小説だった。
国家生活党臣民軍司令官の江堀貴之は32歳だった。彼は携帯電話で九段会館の防衛隊隊長飯田勲から、武道館午後3時出発の指令を
受け取ると、副司令官である熊谷史に「分隊長を楽屋に集めろ」と命令した。熊谷史は26歳だった。
1階、2階の客席には臣民軍兵士1万が、すでに武装を装備して待機している。
分隊長の指揮下には50人の兵士がいた。
200人の分隊長が大きな楽屋に集まってきた。
「100分隊、5000で、靖国神社の旧右翼にアッタク。100分隊5000で駿河台の左翼にアタック。
靖国方面隊は副司令官熊谷が指揮をとる。駿河台方面隊はおれが指揮をとる。三々九度で出発しろ」
熊谷史は兵士をタクシー、地下鉄、電車、歩行と分散させ、靖国神社に集結させる脈管戦法をとった。
武道館から外に出たとき、粉雪がちらついてきた。1月17日の冬空はすでに重い雪雲になろうとしている。
熊谷史はふと腰に装着されているナチス棒を触った。今は短いが、取り出して振り下ろせば長い棒になる。
熊谷史の故郷は西会津の村だった。あの日も雪だった。彼は父の葬式を思い出していた。
4月になったばかりの日、父はガンで死んだ。葬式の日、なごり雪は大雪となっていた。
そのとき、熊谷史は小学4年生になろうとしていた。進級の前に父は死んだ。
父は棺桶に入れられた。その長い棺桶を村人が麻で編んだ会津武士衣装を着て墓まで運んでいく。村人は哀悼の謡を唄っていた。
棺桶を運ぶ村人は裸足だった。舗装された道路が黒く濡れていた。重い雪が降っていた。土葬だった。
熊谷史は村人の後ろから付いていった。雪は舞い向こうに山並みがうっすらと見えた。
家では祖母と母が泣いていた。
熊谷史はちいさい頃から、明治維新軍に敗北した会津戦争の話を聞かされていた。
会津人はまだ長州を許してはいなかった。会津軍の死者は葬ることも許されず、野ざらしにされたのだった。
「死者を冒涜した敵を会津人は永遠に許さんぞ」祖母はいつも話していた。
明治維新軍の神社が靖国だった。熊谷史にとって、そこは敵の神社だった。
「おれは会津人として、今日、決着をつけてやる」そう熊谷史は、靖国神社での大会戦に向かっていった。
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