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(回答先: 08/13 10:05 対米開戦方針、ソ連に伝達 政府内の日本人スパイ 暗号名「エコノミスト」 共同 投稿者 倉田佳典 日時 2005 年 8 月 16 日 19:40:32)
08/13 10:11 ソ連指導部が信頼、重視 外交官の可能性も
ソ連の情報活動に詳しいモスクワ大学のアナトリー・スドプラト
フ教授の話 「エコノミスト」はスターリンへの報告書に何度も引
用されており、当時のソ連指導部が信頼性が高い情報源として重視
していたことが分かる。日本で活動したソ連スパイではゾルゲが有
名だが、スターリンは「エコノミスト」も含め多くのスパイの情報
を基礎に戦略を策定していたとみられる。
スターリンへのベリヤの報告を調べると「エコノミスト」周辺や
、ルーズベルト米大統領周辺への工作を通じ、日米を衝突させよう
としたことをうかがわせる記述もある。これはソ連指導部が「エコ
ノミスト」を単なる情報提供者ではなく、政策決定に影響力を及ぼ
すこともできる重要人物とみなしていた可能性を示す。だが「エコ
ノミスト」が官僚だとすれば、それほどの実力があったかどうかは
疑わしい。外交官だったとの証言もある。
ドイツとの戦いで疲弊したソ連は、非常に厳しい状況にあった。
日本がソ連ではなく対米開戦に向かうとの「エコノミスト」報告は
高く評価されたのではないか。
当時日本で活動していたソ連内務人民委員部工作員のドルビンは
、このほかにも複数の日本人スパイを担当しており、ベリヤ報告に
は「サトー」の暗号名で登場する日本人もいる。(モスクワ共同)
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[2005-08-13-10:11]
269 08/13 10:06 太平洋戦争前後の日ソ関係
太平洋戦争前後の日ソ関係 ソ連軍が満州とモンゴルの国境で関
東軍を撃破した1939年のノモンハン事件後、日本軍部の対ソ強
硬論が後退。41年4月、南進を図る日本と極東の安定を求めるソ
連の利害が一致し、領土不可侵を規定した日ソ中立条約が締結され
た。しかし互いに仮想敵国との警戒を解かず、スターリンは満州や
日本国内に多数の工作員を送り込むなど情報収集に力を注いだ。ソ
連は45年8月8日対日参戦した。(共同)
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[2005-08-13-10:06]
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