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(回答先: [縄文VS弥生]出会いの風景(中) 関東 【読売新聞】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 13 日 03:24:15)
[縄文VS弥生]出会いの風景(下)北海道(連載)
◆漁労発達 稲作に対抗意識?
水田稲作は関東よりも早く東北北部に伝わった。青森県弘前市の砂沢遺跡では、弥生時代前期後半(紀元前3〜2世紀ごろ)の水田跡が見つかっている。より稲作に適しているはずの温暖な関東よりも早いのは、縄文時代以来、日本海を通じて西日本とも直接的な交流があったこと、この地域に栄えた縄文晩期の亀ヶ岡文化に水田稲作を受け入れる力があったこと、などが理由として考えられている。
水田稲作は津軽海峡を渡ることはなく、北海道では縄文時代以来の狩猟・漁労や採集を中心とした生活が続いたため、本州以南の弥生時代に対し、北海道は続縄文時代と呼ばれる。ただ、砂沢遺跡に水田が営まれた直後の弥生時代中期初めごろ、津軽海峡をはさんで東北北部と道南地方でほとんど同じ形の土器が作られるようになる。この点を重視し、恵山(えさん)文化と呼ばれるこの時期の道南地方の文化を弥生文化の一種と考える研究者もいる。
しかし、伊達市噴火湾文化研究所学芸員の青野友哉さんは否定的だ。この時期の弥生的要素は「交流の結果得られたもので、生業や社会の変革を伴うものではない」と主張、恵山文化を続縄文文化の一地方文化と位置づける。何より、北海道の続縄文人が稲作を選択しなかったことが、両者の以後の歴史を全く異なったものとし、アイヌ民族と大和民族に分かれていく分岐点になったことは、強調してもしすぎることはないだろう。
興味深いのは、恵山文化は漁具としての骨角器が異常な発展を遂げ、漁労が猛烈に盛んになったことをうかがわせることだ。「なぜ漁労か、と問われても答えられませんが、間違いないのは、隣に生まれた弥生社会との接触によって生じた変化であるということです」。北大助教授の小杉康さんは、そう力説する。
道南の続縄文人と東北北部の弥生人は、津軽海峡をはさんで縄文時代以来、密接な交流を続けてきた。同じ顔つき体格で同じような生活をしてきた両者のうち片方が、違う生活を始めた時、もう片方は何を考えたのだろう。冷涼な気候のため稲作は不可能と気づき、対抗意識を燃やして漁労に精を出したのだろうか。
日本列島の弥生化は、狩猟・採集の獲得経済から水田稲作の生産経済への「発展」という文脈で、人類史の一典型例として位置づけられるのが普通だ。北海道もこうした理解に立って、「発展が遅れた地域」と規定されてきた。
だが、九州大教授の宮本一夫さんは「中国大陸に誕生した農耕化といううねりが、長い時間をかけて日本列島に達した」と解釈。「波はゆっくりと日本列島を洗い、その余波が北海道にまで及んだ。国際社会の大きな事件に巻き込まれたと考えるべきだ」と小杉さんも同調する。その過程で、上手に波に乗った地域や、のまれてしまった地域、しばし踏みとどまった地域など様々だったろう。
今、日本は様々な異文化の波にさらされている。それらをどう選択し、何を受容し、どう変わっていけばいいのか。縄文と弥生の出会いに思いをはせることは、その重要なヒントになるに違いない。(片岡正人記者)
◎
特別展「縄文VS弥生」は東京・上野公園の国立科学博物館で31日まで。
写真=北海道伊達市の有珠モシリ遺跡から出土した恵山文化を代表する骨角器の銛頭(もりがしら)(伊達市教委「図録有珠モシリ遺跡」より)
http://www.yomiuri.co.jp/index.htm
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