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(回答先: [縄文VS弥生]出会いの風景(上)九州 【読売新聞】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 13 日 03:19:54)
[縄文VS弥生]出会いの風景(中)関東(連載)
◆まず陸稲 西に学び水稲へ
神奈川県大井町の中屋敷遺跡で、関東地方の稲作の始まりを考える上で、極めて重大な発見があった。昭和女子大の調査団(団長・山本暉久(てるひさ)教授)が昨年発掘した、弥生時代前期後半のゴミ穴から炭化したコメが大量に出土したのである。
コメの存在を推定させる根拠として、土器についたモミの圧痕や、稲の葉の化石であるプラント・オパールなどが活用されるが、実物に勝る証拠はない。しかも、土器によって考古学的な年代が確定できる遺構から出土し、放射性炭素による年代測定もなされている。多くの研究者が、中屋敷のコメを「確実な資料としては関東以北で最古」と太鼓判を押す所以(ゆえん)である。畑作植物であるアワやキビとともに発見されたことから、「このコメは水稲ではなく陸稲だった可能性が高い」と山本さんは指摘する。
数百年後の弥生時代中期中ごろ(紀元前2世紀)、約7キロ離れた同県小田原市の中里遺跡で、関東では初めての本格的な水田集落が出現する。興味深いことに、この遺跡から出土する土器の5%が関西系の土器だった。発掘調査を指揮した玉川文化財研究所長の戸田哲也さんは、こんな場面を想像している。
「関西から新天地を求めて太平洋を舟でやってきた関西の弥生人たちが、この地に上陸して、水田稲作を始めた。縄文系の生活をしていた地元の人々は初めは遠巻きに見ていたが、秋に豊かに実った稲を見てびっくりした。『おれたちの稲とは違うぞ』って。それで、移住してきた人々と交じって稲作の暮らしをするようになったんです」。もともと陸稲を知っていた地元の人々にとって、水稲に違和感がないどころか、待望されていたのだと推測する。
九州北部で水田稲作が始まってから、約300年も遅れていることになる。コメの情報は早くから伝わっていたのに、なぜ関東で水田稲作が始まるまで、こんなに時間がかかったのか。東日本の縄文人は資源に恵まれており、水田稲作を選択する必要がなかったからだという「縄文主体論」が主張されたこともある。
しかし、駒沢大助教授の設楽博己さんは、そうは考えない。「関東も縄文時代晩期になると寒冷化によって集落の数がぐんと減ります。人口が少なすぎて、多くの労働力が必要な水田稲作は、しようにもできなかったのです」。その上で、できることから始めたのが、以前から生業の一部として栽培していた雑穀の延長である陸稲だった。西日本の弥生文化の影響を受け、水田稲作はしないまでも、狩猟・採集より雑穀農耕に比重をおいた生活を始めた人々がいたわけで、設楽さんは彼らの文化を「縄文系弥生文化」と呼ぶ。
さらに、中里遺跡で水田稲作が始まったころのこの地域の土器が、中国地方で数点見つかっていることに注目。「土器を携えて、水田稲作の先進地に偵察に行っているんです。中里遺跡に来た弥生人はおそらく招聘(しょうへい)されてきた人です」
より豊かな暮らしを求めて、縄文系の弥生人が水田稲作を選択したのだとしたら、それもまた立派な「縄文主体論」と言えよう。(片岡正人記者)
◎
特別展「縄文VS弥生」は東京・上野公園の国立科学博物館で31日まで。
写真=関東で最初の本格的な水田集落、中里遺跡。竪穴住居跡が多数発掘された(1998年11月撮影)
http://www.yomiuri.co.jp/index.htm
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