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[縄文VS弥生]出会いの風景(上)九州(連載)
◆北部出土の人骨、がらりと変化
東京・上野公園の国立科学博物館で開かれている特別展「縄文VS弥生」(31日まで)は、縄文人がどのようにして弥生人になったのかを考えさせてくれる。そこには、「VS」と言えるような対決が本当にあったのか。日本各地の様子を再現してみた。まずは、九州から。(片岡正人記者)
異文化との出会いは、世界の至る所で繰り返されてきたが、時として悲惨な結末を迎えることがある。アステカ文明(メキシコ)の人々は、1519年にスペインからやってきたコルテスを、伝説の王ケツァルコアトルの再来と信じて歓迎したが、結局激しい争いとなり滅びてしまう。縄文人も優勢な稲作文化をもつ渡来人との戦いに敗れてしまったのだろうか。
「朝鮮半島から来た少数の渡来人はまず、沿岸部の低地で細々と稲作を始めました」。国立歴史民俗博物館助教授の藤尾慎一郎さんは、弥生時代の始まりの瞬間をこう思い描く。「狩猟・採集を主たる生業とする縄文人の領域を侵すわけではなかったので、いさかいはほとんどなかったはず。水田稲作には多くの労働力が必要なので、渡来人は近くの縄文人を誘って、一緒にやっていくうちに、好奇心旺盛な縄文人の間にも稲作がどんどん広がっていったのでしょう」。従来の定説では紀元前5世紀ごろ、藤尾さんら同博物館のグループが一昨年提唱した新しい年代観では紀元前10世紀ごろの話だ。
比較的平和裡(り)に縄文人が稲作を取り入れ、社会が弥生化していったという考え方が、近年は主流となっている。その根拠としては、水田稲作開始期に〈1〉水田のある集落で出土する土器の9割は縄文系で、渡来人のコロニーと考えられるような集落がない〈2〉渡来人と縄文人が争った痕跡がない――などが挙げられる。
しかし、不思議なことがある。それから約200〜300年後の弥生時代中期になると、九州北部で出土する人骨の8〜9割が大陸系の形質に変化してしまっているのだ。このため、人類学者の多くは多数の渡来人が渡ってきたと考えている。
ただ、最近、九州大教授の中橋孝博さんが興味深い研究成果を発表した。渡来人が少数でも人口増加率が縄文系の人々より少し高ければ、数百年後に“人種”ががらりと入れ替わってしまうこともあり得るというのだ。考古学と人類学との齟齬(そご)を解消させる魅力的な説として注目されている。
しかし、この研究は、縄文系集落と混血系集落の間に通婚関係はないという前提になっており、縄文系集落が稲作を始めて人口増加率が上がる可能性も除外している。中橋さんも、設定に不十分な点があることは認めているが、「骨のデータから見て、ほとんど通婚がなかったと考えざるをえない。縄文系の人々はやはり南や東に追いやられていったのです」と、考古学の通説に疑問を投げかける。
もう一つ不思議なのは、朝鮮半島から伝わったとみられる支石墓から出土する人骨のほとんどが縄文系であること。これには考古学者も人類学者も首をひねるばかりだが、西南学院大教授の高倉洋彰さんは、こう考える。「縄文人が自ら海を越えて、水田稲作を学びに行ったのです。帰ってきてから、向こうの風習をまねて支石墓を作ったのではないでしょうか」
弥生文化の主たる担い手が、縄文系の人々なのか、渡来系の人々なのか、まだまだ論争は続きそうだ。
写真=日本最古の水田が出土した福岡市の板付遺跡。史跡公園として整備されている
http://www.yomiuri.co.jp/index.htm
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