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万世一系思想を唱えた勢力自身が簒奪者であったたに沈められた真実
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投稿者 あっしら 日時 2005 年 8 月 05 日 17:27:03: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 藤原不比等と天の鼓 沈められた真実 【山本能楽堂】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 05 日 01:24:21)


愚民党さん、どうもです。


“藤原不比等”が「日本書紀」(ほんの1行)や「続日本紀」に書かれているかたちでほんとうに実在したのかという疑念も抱いています。
(“藤原不比等”は亡命百済貴族の子であるはずですから、そのような立場の者があれほどの短期間に権力中枢に駆け上がられたのか疑問です。百済亡命勢力は、「壬申の乱」では、旧政権に助けられたことを考えれば当然なのですが、反天武=負け側に付いています)


「日本書紀」があてにならない史書ならば、それを引き継いでいる「続日本紀」も、「日本書紀」との整合性や9世紀の政治権力者の正当性との関わりであてにならない記述がけっこうあるはずと疑うからです。
「日本書紀」→「続日本紀」と続けて読むと、具体的な記述内容や編年の確からしさに魅入られ「続日本紀」はきちんとした史書という印象を受けてしまいます。


>天鼓の物語が200年代に遡る事を考えれば、それは当時の中国で行われた史書編纂
>のエピソードだったのかもしれない。
>他国の史書において、新政権を正当化するために真実を歪曲するのは日常茶飯の手法
>だった。
>大和朝廷はその方法を知り、利用したのではないだろうか。


シナの史書の多くは、前王朝の歴史を清王朝が編纂するというかたちをとっているので、前王朝が滅亡に至った理については手前味噌に書いてありますが、事実については、シナ的統治価値観で評価されていて歪曲という印象をあまり受けません。

「日本書紀」は、“万世一系”らしく見せる記述方法を新羅の史書から学んだと思っています。
(神代紀は、倭の伝承をベースに、加羅・百済・シナ的要素を付加したようです)

>天武天皇(大海人皇子)の正体

> しかしここにもうひとつ、不可解な謎が浮上する。「日本書紀」の編纂が
>天武天皇の意図によるものならば、天武天皇は旧王朝を否定する勢力という
>ことになる。なぜならば「記紀」には旧王朝について何も明確には記載されて
>いないのだから。

> だが天武天皇は筑紫の君・薩夜麻を奉じて戦った。そして九州王朝の王にして日
>出処天子である阿毎多利思北孤と共通するおおあまのおうじという名を持つ。彼は、
>旧王朝側の人間ではないか?


天武=筑紫君サチヤマだろうと推測しています。

「日本書紀」は造作をしているが事実を探るネタはばら撒いていると思っているので、
筑紫君サチヤマ以外に天武に相当する人物が見当たらないことがその理由です。

筑紫君サチヤマが旧王朝(豊日政権)で権力機構の一翼を占めていたことは確かでしょう。

筑紫君サチヤマは、おそらく“百済救援出兵”にそれほど積極的ではなかったのに、白村江で唐の水軍に敗北して捕虜になったのでしょう。
5、6年間捕虜生活をおくったのち唐軍に連れられて帰ってきたら、旧王朝が唐に支えられて生き残っている現実があった....

ここから、「壬申の乱」という長い内戦が倭で起きたのだろうと思っています。


> 天武の死後、その遺志をうけついで記紀を編纂したのは持統だったといわれる。し
>かし、持統は天智の娘であった。天智の腹心であった藤原鎌足の次男、不比等を重用
>したのは、父親世代に基くふたりの深い絆を示している。


天武も持統も内戦期の人物で天皇にはなっていない可能性が高いと思っています。

天智は、実のところ百済“偽”王である余豊章(篇として王が付く)ですから、娘がいたとしても天武の妻になることはありません。(“偽”というのはシナの史書の呼び方です)

(藤原不比等が余豊章(篇として王が付く)である可能性は捨て切れません)

藤原鎌足は、百済最後の王・余豊章(篇として王が付く)に惨殺された鬼室福信に間違いないと思っています。


> 不比等は「記紀」においてあらゆる手を尽くし、新大和政権を正当化した。
>聖徳太子や蘇我氏に関する記録も詐述であるといわれる。そもそも聖徳太子は存在し
>ないし、厩戸皇子と日出処天子は別人であり、かの日出処天子は九州王朝の王、あま
>たりしほこであった。(封印された王)


聖徳太子=厩戸皇子=日出処天子=蘇我馬子であることもほぼ間違いないと思っています。

旧王朝の大王の一人である阿毎多利思北(比)孤を史書のなかで大王として扱いたくなかったことが、聖人・聖徳太子と悪族・蘇我馬子の二人の人物を生み出した動機ではないでしょうか。(多利思北(比)孤は対隋外交でわかるように高い評価を得ていたはずです)


>ところで蘇我氏に与えられた名、馬子、蝦夷、入鹿というのも日本書紀の命名であっ
>て本名ではないらしい。
>馬子=嶋大臣、蝦夷=豊浦大臣、入鹿=林太郎、林大臣、鞍作という呼び名が伝えら
>れている。
> それを敢えて、いかにも悪人風の名を与えたのは、聖徳太子と蘇我氏の業績を葬り、
>新たに創り上げた偶像に集合した上で大和政権に取り込むために周到に企てられた策
>略である。


そうした造作の目的は、新政権が万世一系の王権を簒奪した悪党の巣窟になってしまうことを忌避することにあります。

万世一系思想で自分たちの支配権が未来永劫にわたって維持されることを願いながら、そういう自分たちは簒奪者でしかなかったでは笑い話になってしまいます。


策略といっても、新政権の人たちもそのような事実は知っていたし、内内では語り継がれてもいたはずで、後世では“真実”扱いされなくなることを狙っていた程度の話だと思っています。


> しかしあの、海からは程遠い飛鳥の地にあって嶋大臣、豊浦大臣とは?
>おそらく蘇我氏は九州王朝から派遣された大臣だったのだろう。飛鳥寺の日本最古と
>伝えられる大仏の面差しは、九州王朝から運ばれたと思われる救世観音、釈迦三尊と
>あまりによく似ている。


“蘇我”王朝=豊日政権は九州に政治権力機構の中心を置いていました。
「壬申の乱」でそれを倒した勢力も九州を基盤としていました。

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