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藤原不比等と天の鼓 沈められた真実 【山本能楽堂】
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 05 日 01:24:21: ogcGl0q1DMbpk
 

藤原不比等と天の鼓
沈められた真実


天鼓という能がある。とてもよくできた能で人気がある。

所は中国、時代は後漢(魏の前、卑弥呼の頃)。
なかなか子供の出来なかった夫婦が天に祈ったところ、妻が夢を見た。胎内に天より降りた鼓が宿る夢だ。
妻は懐胎し、生まれた子を天鼓と名付けた。その後天より本物の鼓が降り下った。天鼓が打てば美しい音を奏で
世間の評判を博するところとなった。この由は帝の耳にも届き、鼓は内裏に召されることとなる。
天鼓はこれをよしとせず、鼓を抱いて山中に隠れた。
帝の追っ手を逃れることはできなかった。天鼓は捕らえられ呂水の江に沈められ、鼓は内裏へ据え置かれた。

しかしながら絢爛たる宮殿に置かれた鼓は、誰が打っても鳴ることはなかった。
天鼓との別れを嘆き鳴らぬものであろう。宣旨によって天鼓の父が内裏に召される。
愛する我が子を失って、老父は泣き暮らして日を送っていた。
身勝手な帝の命令に背くこともできぬ力ない老人である。参内したからとて天の鼓を鳴らすことなど出来よう筈もない。
しかし所詮、生き永らえたからとてこの世に希望も幸せもない。
死の覚悟を決めて参内し、鼓へと進む足どりは薄氷を踏む思いである。

奇跡が起こった。父の撥に、天の鼓が鳴り響く。
天の我が子が応えたのだ。あまりのことに老父はひれ伏し号泣する。
哀れを慰める為、帝は弔いの管弦講を催される。
満天の星が呂水の水面に映ってあたかも宇宙空間だ。
天に昇った天鼓の霊はひととき姿を現して、鼓を打って舞い戯れるのだった。


悲壮な物語を背景に、光り輝く宮殿に据え置かれた天の鼓。老父の嘆き・悲しみは透き通って心に沁みる。
しんと閑まり悲しみで冷え切った宮殿に、天鼓の音が響く。親子の情愛を象徴して観る我々の心を揺り動かす。
鼓の音は、波の音である。笛の音は、誰かの泣く声である。
弄鼓の小書きで盤渉調となった笛の音は水の調子と謂われ、華やかに舞い遊ぶ少年の姿とはうらはらに
高く冷たく響くのである。


大和朝廷の禁書令

 「あま」と大和朝廷のことを調べるうちに、ある奇妙な一致が気に掛かるようになった。
それは、天武朝が記紀を編纂するにあたり各氏族の史書を召し上げた、
という一連の記録のひとこまである。

708年、藤原不比等右大臣となり、詔勅を出す
「山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」
                                                    (続日本紀)

 記紀以前に、日本に書籍は存在しないという人がいる。そうした文書が話題となっても偽書と決めつける人が多い。
はなから見向きもしないのだ。歴史の真実を明らかにするのが使命であるはずの研究者すら、むしろ「万世皇統一系」
を信望するあまり、記紀と食い違う他国の記録をさえ誤記と決めつけてはばからない向きが多いようだ。
 彼らが信望する「記紀」に、これほどはっきりと記録されているものを。
この708年前後の「記紀」編纂とそれにともなう朝廷の動向を下に記す。
682年(天武天皇10年)
大極殿に川島皇子らを招き、帝王の記録と上古のもろもろの事を記録させた (日本書紀)      
691年(持統天皇 5年)      
大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、
羽田、阿部、 佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した「墓記」を奉らせた (日本書紀)
701年(文武天皇 5年)
大和政権の、永続的な年号としては初めて「大宝」を立てる (続日本紀)
708年(元明天皇・和銅元年)
藤原不比等が右大臣となる。
「山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出す (続日本紀)
712年(元明天皇・和銅 5年)
太安万侶が「古事記」を撰上
713年(元明天皇・和銅 6年)
中国・唐に使いを出し、儒教を学ばせるとともに、皇帝からの下賜品(を金に換え)、市中の史書や本をことごとく買い尽くし、
海に浮かんで帰った (唐会要・旧唐書)
714年(元明天皇・和銅 7年)
紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂に国史の撰上を命じる。
720年(元正天皇・養老 4年)
舎人親王が勅を奉じて日本紀を修し、奏上した。紀三十巻、系図一巻。不比等死ぬ


新政権の確立は、容易ではなかった。朝廷を正当化し、後世に渡ってゆるぎない皇統継承の制度を樹立する為に
新閣僚は智恵をしぼっただろう。旧王朝勢力、反朝廷勢力は粛清されたに違いない。
天武天皇のおくり名に武の文字が含まれるのは偶然ではない。

おそらく強大な武力を楯にして、新朝廷は権力を行使した。
誰が思いついたのだろう。過去の歴史を隠滅し、改ざんすることで、民衆の意識が操作されて行く巧妙な手法。
天鼓の物語が200年代に遡る事を考えれば、それは当時の中国で行われた史書編纂のエピソードだったのかも
しれない。他国の史書において、新政権を正当化するために真実を歪曲するのは日常茶飯の手法だった。
大和朝廷はその方法を知り、利用したのではないだろうか。



天武天皇(大海人皇子)の正体

 しかしここにもうひとつ、不可解な謎が浮上する。「日本書紀」の編纂が
天武天皇の意図によるものならば、天武天皇は旧王朝を否定する勢力という
ことになる。なぜならば「記紀」には旧王朝について何も明確には記載されて
いないのだから。
 だが天武天皇は筑紫の君・薩夜麻を奉じて戦った。そして九州王朝の王にして日出処天子である阿毎多利思北孤と共通するおおあまのおうじという名を
持つ。彼は、旧王朝側の人間ではないか?

 実は考古学・文献上の資料によれば、大和政権で始めて天皇の称号で呼ばれたのは天武・持統あたりだという。
天武天皇時代にあたる飛鳥の遺跡から出土した木簡に天皇の文字が刻まれていたのが最古の考古学的資料である。この木簡は天皇継承のない年の新穀の祭り、新嘗祭の記録だった。そして、天皇の正式な継承儀式である大嘗祭の記録は、「記紀」においてすら持統天皇からしか記載されていない。大和政権が国家の年号を発布したのも持統天皇の代と記載される。
 さらに、「記紀」の記述から天智と天武の年齢を算出すると、天武のほうが四歳年長になってしまう。
天智と天武は兄弟ではないのではないか、と考えるひとは多いのだ。ふたりの正確な没年も記載されていない。

持統天皇と藤原不比等

 天武の死後、その遺志をうけついで記紀を編纂したのは持統だったといわれる。しかし、持統は天智の娘であった。天智の腹心であった藤原鎌足の次男、不比等を重用したのは、父親世代に基くふたりの深い絆を示している。
 天武の死因も陰謀かもしれない。持統はその後も、我子(結果的に孫となった)を皇位につける為に大津皇子を殺させている。
 持統が天智側の謀略を隠し持って、虎視眈々と天武の傍にいたとしたら、いちど「あま系」勢力が奪い返した政権が、最終的に「やまと系」の手中に収まった、という顛末が浮かんでくる。記紀は大海人皇子を、やまと側の人間として認めない。

 記紀を完成させたのは藤原不比等だったのだ。

 不比等は、どんな意思をもって私達に記紀を遺したのだろう。
彼の人生は身を切られるような思いに満ちていたに違いない。権力抗争、国家の進退、自分自身の生命すら保証されない陰謀のるつぼ。
 ちなみに鎌足の長男は、鏡女王との間に生まれた定慧だが、おそらく旧王朝のおとしだねであった為に、12歳で唐へ人質に出され、21歳で帰国した2ヵ月後に暗殺された。
 そんな状況である。歴史の大きなうねりの真っ只中で不比等は、何を目指すようになったのだろうか。

 


能・天鼓と不比等の遺志

 藤原不比等は自分自身に「不比等」という名を与えた。その業績から、
「ふひと」は「史」と書かれることもある。
「比べる者もないほどの人物」、「史書の製作者」。
 
 しかし私は「ふひと」という響きに、いつももうひとつのイメージが浮かぶ。
「不人」‥「ひとにあらず」。

 血も涙もなく、天の鼓を召し上げる皇帝。同様に、禁書を召し上げた不比等。
さらにもうひとつ。「海士(あま)」という能において、淡海公(不比等)は龍宮に盗られた宝珠を手に入れた。
このときやはりひとりの人間が命を失っている。その腹に身籠った不比等の嫡子の為に。その子は能の中で
「卑しき海士(あま)の子」というレッテルを貼られた。
 
 私にはこれらのエピソードの一致が、とても偶然のこととは思えないのだ。
能「海士」の原典となった説話では、海士の夫は不比等ではなく鎌足である。
能「天鼓」では、「あまのつづみ」は女の腹に宿り、やがて皇帝に命を召されてしまった。

 能は、何を伝えようとしているのか。これは前政権の皇族「あま氏」の血筋と歴史を、不比等が断ち切ったことを
表しているのではないか。
  
 白村江の戦いの後、中大兄皇子に召された後、鎌足に下された鏡女王。
身籠っていた鏡女王を腹の子ごと鎌足に賜り、中大兄皇子は言い放った。
「腹の子が女ならば私の子として育てるが、男ならば汝に与える」(白村江のたたかい)
生まれたのは男子。幼くして唐へ人質に出され、やがて謀殺された。不比等の兄であった。
 
 不比等は「記紀」においてあらゆる手を尽くし、新大和政権を正当化した。
聖徳太子や蘇我氏に関する記録も詐述であるといわれる。そもそも聖徳太子は存在しないし、厩戸皇子と
日出処天子は別人であり、かの日出処天子は九州王朝の王、あまたりしほこであった。(封印された王)
 また、聖徳太子一族を滅ぼした悪人に蘇我氏を仕立てているが、その事実を裏付ける資料は
「日本書紀」以外に公認されない。なにしろ当時ごく限られた数の書写された史書を、山沢まで追い詰めて
没収、隠滅したというのだから。
あまつさえ日本書紀には蘇我氏が朝廷図書館に火を放って書籍を焼失したとまで記載される。

ところで蘇我氏に与えられた名、馬子、蝦夷、入鹿というのも日本書紀の命名であって本名ではないらしい。
馬子=嶋大臣、蝦夷=豊浦大臣、入鹿=林太郎、林大臣、鞍作という呼び名が伝えられている。
 それを敢えて、いかにも悪人風の名を与えたのは、聖徳太子と蘇我氏の業績を葬り、新たに創り上げた偶像に集合した上で大和政権に取り込むために周到に企てられた策略である。

 しかしあの、海からは程遠い飛鳥の地にあって嶋大臣、豊浦大臣とは?
おそらく蘇我氏は九州王朝から派遣された大臣だったのだろう。飛鳥寺の日本最古と伝えられる大仏の
面差しは、九州王朝から運ばれたと思われる救世観音、釈迦三尊とあまりによく似ている。

 白村江の敗戦に乗じて九州勢力が葬られた後、
唐に抑留されていた九州王を擁した壬申の乱が勃発。再び政局は混乱するのだ。
どれほどの血が流されるのを、不比等は見ただろうか。自らの血が流される悪夢を見ない日があっただろうか。

 

藤原氏の繁栄・不比等の遺産

 その後も数々の政治手腕を駆使して藤原氏は繁栄を極め、現代に至るまで日本の中枢に居続ける。
 しかし藤原氏自身が権力の頂点である天皇になろうとすることはなかった。

 全世界、どこの国にもいえることだが、人間の集団が結束するには結束する理由が必要となる。より大きな集団の強固な結束のためにはそれ相応の「理由」が必要となる。
さらにその「理由」は、国家経営の中枢にいる経営者が行使しやすいものであるほうが良い。「宗教」が利用されることも多い。「民族の優越性における自尊心」、
「共通の外敵の設定」などなど‥さまざまな「理由」が行使されている。

 他者の侵略が切実な問題であった大陸の国々では、「他」を意識した「自」の正当性を「結束の理由」として
行使することが多い。
 大和朝廷にもその選択枝はあった。多くの戦乱・混乱を乗り越え達成されつつあった国家統一。
しかし不比等は紆余曲折の歴史を封印し、日本が現在の天皇の祖先である天孫によって統一されたのだという
「共通の幻想」を創りだした。

 神の子孫に相応しい賢政により日本を統一した天皇一族が、我等単一民族の祖先であり象徴である
という「共通の幻想」は日本の統治と発展に、確かに大きな効力を発揮した。
 それは権力者の日本統一の目的が、収奪や搾取ではなかったこともあろう。
また、ときすでに熟しきり、日本中の豪族による自治組織が、
大陸に対抗しうる強力な集権国家を求めていた時代でもあった。
 統一のための戦乱は継続していたが、それでも統合の後はこの「共通の幻想」を共有する一員として、
多くはその朝廷のシステムに従っていったのだ。
 新朝廷は「共通の幻想」以外にも、さまざまのおみやげを用意していた。それは住民がより豊かな
日常生活を営むに足る最新の技術であったり、知識であった。

 不比等は、自らに「ひとにあらず」という名をつけ、日本統合に力を尽くした。
その業績を追うにつけ、彼を走らせた原動力が強欲な権力嗜好であったとは思えなくなってくる。
そして彼が遺してくれた我々の神話がもたらしてきたものを思い、ありがたく思う。

 不比等は決意したのだろう。人間が、神の地位につかなければ、自らの運命はきまぐれな神に
ふりまわされるばかりだ。大衆は、同じ人間の言葉よりも、きまぐれな神の言葉に容易に従う。

 天の鼓を召し上げ絢爛たる宮殿に置いた皇帝の姿、そして天の鼓の声を哀れみ畏れて管弦講を
催した皇帝の姿に不比等の姿を重ねるのは考えすぎだろうか。



明かされる真実

 沈められた真実‥それに対して反発が起こるのもまた当然だろう。
史実のゆがめられた土地、歴史を抹消された人々、地位を奪われた人々、
戦乱で愛する者を亡くした人々。
 政権に逆らって一族ごと滅亡に追いやられた例もある。

 けれどその真実を明確に書きのこし伝えようとしたならば命はなかった。

 能は、成文化されていない解読困難な形態をもって、その秘密を伝承するのに適していた。
秘密の伝承が目的だったというよりは、書きのこされた秘密が摘発されずにそのままの形で伝承された
という結果論であろう。新朝廷のいわゆる社会機構においては、はずれものとなった芸能者(かつては祭祀に関る職能者だったと思われる)によって伝承されたという事実も、この推測を裏付けているように思える。

 果たして、真実の歴史が明かされるときは来るのだろうか?
 日本では、わずか50年前の戦争の歴史の真実さえ、権力者の策謀と目先の生活に紛れて忘れ去られ、
今日に至っては真実を真正面から見据えようとすることすら難しい状況である。

 地球が回っていると言った人も、猿が人間に進化したと言った人も、たいへんな目に合った。

 存在する意味。自らが何らかの意味のある存在だという証拠によって、人間は存在し得るものらしい。
それを与えてくれる便利な「幻想」。その「幻想」に頼って自己の存在を確立してきた者ほど、
「幻想」を手放すことができなくなる。「幻想」の崩壊=「自己」の崩壊を意味するからである。

 それでも、真実を受け入れることによる社会機構の利益が個人の自意識の一時的崩壊による損失よりも
大きければ真実は受け入れられる。またその機会は、自意識の改革が求められている時期にやって来る。
 
 そうして真実を受け止め続けたならば、ゆきつくところは意味は無い。という地点だろうか?

 私はその地点を見てみたい、と思うのだが、これもまた長持ちのする「幻想」なのかもしれない。

    終わり




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