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大和政権の動揺・その2  【独立国家 真珠帝國】
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 03 日 03:24:04: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 加羅,その3、大加羅   【KBS WORLD】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 8 月 03 日 03:08:07)

大和政権の動揺・その2


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継体天皇

 河内王朝の最後の大王だった第25代の武烈天皇(ぶれつてんのう)には後継ぎがなかった。
その後、継体天皇(けいたいてんのう)が第26代天皇として登場したわけだけど、この登場には謎が多いんだよ。
継体天皇の誕生について、『日本書紀』には、だいたい次のような事が書かれている。


 武烈天皇の死後、朝廷内の最高実力者だった大伴金村(おおとものかなむら)は、まず丹波に行った
その地で、仲哀天皇の五世の孫・倭彦王(やまとひこのおおきみ)を天皇候補として迎えようとしたが、倭彦王はその軍勢に恐れをなして逃げてしまった。
そこで越前の三国に行き、彦主人王(ひこぬしのみこ)の子で、応神天皇の五世の孫にあたる男大迹王(おおとのみこ)を迎えて、王位につけた。
男大迹王は、507年に樟葉宮(大阪府枚方市)で即位して継体天皇となる。
その後、511年に山背国の筒城宮(京都府綴喜)、518年には弟国(京都府向日市)に移り、
526年に大和の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや/奈良県桜井市)に遷都した。


 この文章だけを読むと、「どこが謎なんだ?平和的に皇位継承されているじゃないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし、文章をよく読んでみると、妙な部分に気が付くんだよ。
もし平和的に皇位継承されたのならば、即位後すぐに大和入りして良いはずなんだよ。
それなのに継体天皇が大和入りしたのは、507年に即位してから19年も後のことだ。
継体天皇は、何故すぐに大和入りすることが出来なかったのか?
考えられる理由は一つしかない。継体天皇に反対する勢力が大和に存在していたからだ。
そこで、まず最初に継体天皇の勢力基盤を見てみようと思う。


継体天皇の勢力基盤


 継体天皇の父・彦主人王は近江の王で、母は垂仁天皇七世の孫といわれる振姫(ふるひめ)だ。
振姫は越前の三国で生まれ、彦主人王と結婚後は近江に住み、その地で継体を生んでいる。
ところが継体が幼少のころに彦主人王が死去したため、彼は母に伴われて越前の高向に行き、そこで成長しているんだよ。
 父・彦主人王の本拠地は近江の息長(おきなが)で、この地の豪族だった息長氏の出身だと言われている。
息長氏なんて聞きなれない豪族名だけど、現在の滋賀県坂田郡近江町や米原町あたりを本拠地とし、琵琶湖の湖上交通を掌握した大豪族だ。
継体には皇后以外の配偶者が8人いて、8人のうち息長氏の息長真手王や坂田大跨王の娘をはじめとして、近江出身者が5人もいるんだよ。
つまり、継体は母方の越前だけではなく、父方の近江にも勢力基盤があったわけなんだけど、近江にはもう一つ注目すべき点がある。
実は、近江の北部は古代日本を代表する鉄の山地だったんだよ。
おそらく継体は、近江の鉄と息長氏の交通基盤を武器として勢力を拡大していったのだろう。


 残りの配偶者を見てみると、河内出身者が1人、大和出身者が1人、尾張出身者が1人となっている。
このうちの尾張出身者は、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子郎女(めこのいらつめ)だ。
尾張氏は、草薙の剣が奉納されていることで有名な熱田神宮の周辺を本拠地とし、伊勢湾岸の海女集団を支配していた大豪族だ。
当時、伊勢湾は東海地方への拠点とされており、伊勢湾の海路を掌握していた尾張氏は、古くから大和朝廷と結びついていた。
名古屋には断夫山古墳(だんぷさんこふん)という東海地方最大の前方後円墳がある。
その大きさから判断して、尾張地方で強大な支配力を誇っていた尾張氏の古墳であるのは間違いないだろう。
そもそも前方後円墳という古墳の形は、大和朝廷の有力者たちを埋葬するために考え出された墳形だ。
地方の豪族の尾張氏が前方後円墳に埋葬されたのは、継体天皇と目子郎女が婚姻関係にあったからにほかならない。
しかも、目子郎女は継体とのあいだに、第27代の安閑天皇(あんかんてんのう)と第28代の宣化天皇(せんかてんのう)をもうけている。
継体にしてみれば、自分の勢力基盤拡大のための政略結婚だったのだろう。
でも、尾張氏としても、継体と結ぶことは自分たちの勢力アップに繋がるわけだから、喜んで継体をバックアップしたんだろうな。


皇位継承のカラクリ

 今見たように、男大迹王は越前を本拠地とし、近江や尾張まで勢力を拡大していた大豪族だ。
そんな男が継体天皇として即位する事に、大和朝廷の連中が素直に納得したとはとても思えない。
たとえ朝廷内の最高実力者だった大伴金村が選んだ人物であったとしても、断固として阻止したのではないだろうか。
それに、武烈天皇に後継ぎがいなかったとしても、彼の血筋に近い人物が他にもいたはずなんだよ。
それなのに、結果的には継体天皇が誕生したのは何故か?
結論から言えば、俺は継体が武力によって皇位を奪ったのではないかと考えている。
おそらく大和朝廷は新天皇擁立に向けて動いていたが、後継者がなかなか決まらず混乱していたと思う。
そんな状況下において、継体は大伴金村をも利用し、越前や近江から兵を率いて大和に侵攻したのではないだろうか。
そして、526年に大和入りするまでの約20年間は、旧王朝派と継体王朝の武力抗争の期間だったと俺は思う。


歴史学者の中には、継体が「応神天皇五世の孫」を旗印として戦ったと考える人もいるが、俺は支持しない。
何故支持しないのかと言うと、応神天皇は継体天皇の皇位継承を正当化するために作り出された架空人物だからだ。
歴代天皇は、初代からずっとおなじ血筋で続く「万世一系」であると『日本書紀』や『古事記』は伝えている。
しかし実際は架空の天皇も多いし、継体以前の天皇にしても、「万世一系」がどこまで守られていたのか不確定だ。
継体の場合、越前や近江を勢力基盤としていた地方豪族なのだから、天皇家と血縁関係にあった可能性は低いと見て良い。
そこで、継体を無理矢理「万世一系」にあてはめるためのパイプ役として、応神天皇という架空の天皇を創り出したと俺は考えている。
「応神天皇五世の孫」という変な肩書きも、天皇系図を調べても真実がわからないようにするためのものではないかと思う。


 継体が「万世一系」ではない事は、諡号(しごう)からも判断できる。
天皇の死後、生前の功績をたたえて送られた称号を諡号という。
日本の諡号には、国風諡号・漢風諡号・追号の3種類があって、継体は漢風諡号なんだよ。
歴代天皇に漢風諡号が送られたのは奈良時代後期になってからで、漢学者の淡海御船(おうみのみふね)が選定したらしい。
継体という諡号は「体系を継承する」という意味なんだけど、河内王朝と同じ血筋ならば大王位をつぐという意味の「嗣」を使うはずなんだよ。
それなのに「継」の字を使ったのは、継体が今までとは血の繋がりのない全く新しい王朝だという事を当時の知識人たちが知っていたからだろう。


任那四県割譲問題

 大伴金村による任那四県割譲問題について、学校の授業ではどの程度まで説明するんだろうか?
たぶん、あまり重要視されていないんだろうけど、実はけっこう重要なポイントなんだよね。


 これを理解するには、まず最初に当時の朝鮮半島情勢を知っておく必要がある。
427年、朝鮮半島北部の高句麗は、以前から南方の拠点だった平壌に遷都し、本格的に南方経営に乗り出した。
新羅は、最初は高句麗に従属する姿勢をみせていたんだよ。
だけど、後には高句麗の影響を排除するために百済と結び、高句麗と戦闘を交えるようになる。
でも、まだまだこの頃は高句麗の方が強かったんだよ。
 一方、百済に対しても、高句麗は455年以後くりかえし侵攻している。
そして475年には、3万の兵を率いて出兵し、百済の都・漢城を陥落させ、百済王を殺し、一時的な滅亡に追い込んだんだよ。
百済は高句麗の再度の南下進撃を警戒して南方の開拓に意欲をみせ任那への侵略をはかるようになる。
また、新羅も東方から回り込んで任那に関心を示すようになったんだよ。


 朝鮮半島がそんな状況だった512年、百済からの遣いが日本に送られてきた。
そして、任那の上多利・下多利・娑陀・牟婁の四県を百済に譲ってくれと言ってきたんだよ。
この四県は、日本の任那経営にとって重要拠点だ。
そのため、大伴金村と共に大連だった物部麁鹿火(もののべのあらかび)は四県割譲に大反対した。
ところが、周囲の反対を押し切って、金村は任那四県を百済に割譲してしまった。
この出来事が、いわゆる「任那四県割譲問題」だ。
この時、金村は百済側から賄賂を受け取ったのではないかと噂されており、後にこの問題が原因で中央政界から失脚してしまう。


 任那四県を百済に割譲した結果、日本は朝鮮半島での活動拠点を事実上失った上、新羅の任那侵略を容易にしてしまった。
522年には、加羅国王と新羅国王家が結婚し、加羅国が新羅に吸収されてしまうという出来事もおこった。
日本が任那を支配する上で、加羅国は最重要拠点だった。
それなのに、その加羅国が新羅に吸収されてしまった事で、さすがの日本も新羅の存在を無視出来なくなったんだよ。
 527年6月、継体天皇は近江臣毛野(おうみのおみけぬ)を大将とする6万の軍隊を新羅征伐軍として送った。
ところが、ここで全く予期していなかった大事件が勃発してしまう。
筑紫君磐井(つくしのきみいわい)が新羅と手を結び、突如、大和朝廷に反旗を翻したんだよ。


磐井の乱

 さて、いよいよ今回のテーマのメインイベントである磐井の反乱(いわいのらん)について解説する。
磐井の乱がどんな出来事だったのかを簡単に説明すると、次のようになる。


 527年6月、近江臣毛野率いる6万の軍隊が、新羅征伐のため朝鮮半島に渡ろうとしていた。
ところが、筑紫君磐井が筑紫国・火国(ひのくに)・豊国(とよのくに)の勢力を集めて、近江臣毛野の渡海を遮ってしまった。
驚いた大和朝廷は、物部麁鹿火(もののべのあらかび)を将とした磐井討伐軍を九州に派遣した。
1年以上の長い戦闘の末、翌528年11月、ついに物部麁鹿火は磐井を斬殺した。
12月、磐井の子・葛子(くずこ)は、父の罪に坐して殺される事を恐れて、現在の福岡市東部にあった糟屋の屯倉(みやけ)を朝廷に献上した。


 高校の参考書には、だいたいこの文章と同じような内容が記載されている。
受験勉強のためならば、この程度を覚えておけば良いだろう。
ところが、受験生に「磐井とは何者か?」「何故磐井が乱を起こしたのか?」と質問しても、正しく答えることが出来る人は少ない。
つまり、ほとんどの受験生は、磐井の乱を正確に理解していないんだよ。


磐井とは何者か?

 磐井は、『筑紫国風土記』では「筑紫君磐井」、『日本書紀』では「筑紫国造磐井」と表記されている。
「君」とは氏姓制度における姓であり、主に天皇家から分かれた地方有力豪族に与えられた姓だ。
この呼び方は九州地方の豪族に多く、阿蘇君、大分君、日向諸県君などがあり、それぞれ独立性が強い豪族だ。
後の磐井の行動から判断しても、磐井が火国や豊国までも勢力下に置いていた大豪族の首長だったのは間違いないだろう。
 一方の「国造」は、朝廷に服従してきた地方豪族に対して与えられた地位で、大和朝廷の地方官だ。
『日本書紀』の記述のように磐井が筑紫の国造であったならば、大和朝廷の一構成員ということになるわけで、近江臣毛野の渡海を阻止したとなれば、これは「謀反」ということになる。
最近、「磐井は国造ではなかった」という学説が支持される傾向が強く、俺自身も支持している。
その最大の理由が、まだこの当時は国造制度がなかったのではないかと考えられるからだ。
おそらく『日本書紀』の編者たちは、奈良時代には当たり前だった国造制度が、磐井の乱の頃にすでに制度化されていたものと考えていたのだろう。
そして、大和朝廷が九州地方も支配下においていたと後世に伝えるために、「筑紫国造」と表記したのではないだろうか。


福岡県に岩戸山古墳という九州地方で二番目に大きい前方後円墳がある。
『筑紫国風土記』などによると、この岩戸山古墳が磐井の墓だと言われている。
昭和21年ころから岩戸山古墳の調査が進められ、昭和31年に磐井の墓であると正式に認定された。
巨大な前方後円墳の構築は、大和朝廷から許可された地方豪族に限られるとされている。
「筑紫国造磐井」という表記を重視する学者たちはこの点をアピールし、「磐井は朝廷に服従していた」と言いたがるんだよ。
でも岩戸山古墳の場合、基本形は前方後円墳だけど、畿内にある前方後円墳とはかなり形状は異なる。
これは、磐井が大和朝廷とは一線を画し、九州地方でかなりの勢力を誇っていた大王であったことの証明になるのではないかと俺は思う。


何故磐井が乱を起こしたのか?

 筑紫国の外交政策は大和朝廷とは異なり、高句麗や新羅と交易を行なって経済力を高めていた。
それだけに、近江臣毛野が渡海して新羅を攻撃するのは、好ましいことではなかったんだよ。
これだけ見ると、磐井が乱を起こした理由が「筑紫国の外交政策を守るため」のように思えるが、果たしてそれだけだろうか?
磐井は筑紫国だけでなく、豊国、火国まで従えて、近江臣毛野率いる6万の軍隊の渡海を阻止した。
外交政策のためだけに、ここまでやるだろうか。
俺は、「磐井が日本の大王になることを目指した」というのが、最大の理由だと考えている。
そもそも継体天皇自体が、越前の大王から武力によって天皇に成り上がった。
九州地方の大王であった磐井が、「ならば俺が継体に取って代わっても良いだろう」という野望を抱いたとしても不思議ではない。
磐井の軍勢は、物部麁鹿火の大軍と1年以上の長期にわたって戦った。
日本国内の合戦史上、1年間の長期にわたる戦いは、この磐井の乱だけだ。
つまり、それだけ磐井の勢力は大和朝廷に肉薄していたわけであり、継体に代わって日本の大王になった可能性は充分あったんだよ。

http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-5-3.htm
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