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(回答先: 『対米英蘭戦争終末促進に関する腹案』 失敗の本質-日本軍の組織的研究- 中央公論新社 投稿者 hou 日時 2005 年 7 月 31 日 21:57:50)
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=47402&pg=20031031
近衛歩兵第三連隊(a)中橋隊(130名)・・・赤坂の高橋是清大蔵大臣私邸を襲撃して高橋蔵相を射殺。
【事件の背景】
1929年(昭和4年)に発生した世界恐慌以降、日本国内でも農村部の困窮と疲弊、都市部における企業の倒産と失業者が増大・・・一方で政財官の癒着や汚職が蔓延し、軍部の青年将校を中心として、それらの根源を腐敗した元老・重臣による悪政とそ、天皇を取り巻く「君側の奸」を排除すべし、という「昭和維新」思想が広まりつつあった。そんな内憂とともに、日本国内の不況を打開する為の政策として、勢力を朝鮮・満州に伸ばしつつあった日本に対し、欧米列強は自分たちの権益を脅かす存在として、経済制裁による様々な圧力を加えており、これが外奸となっていた。そんな中、軍部では、窮状打開の政策を巡って派閥抗争が繰り広げられていた。主に各部隊付きの青年将校を中心として北一輝や西田悦らの思想を根本とした天皇親政による国家革新を唱える皇道派=A総力戦・戦時経済体制の国家を確立し、合法的手段によって政財官界への軍部の発言権を増大させようとする陸軍省や参謀本部の幕僚将校を中心とした統制派=Aこの二大派閥による陸軍内部の主導権争いの激化する中、1935年(昭和10年)皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭に怒った相沢三郎中佐が、統制派の先鋒永田鉄山軍務局長を斬殺する事件が発生・・・青年将校たちは相沢裁判をキッカケとして、、それを荒木貞夫や真崎ら皇道派の将官が支持、両派の対立は益々激化していた。
A事件二日目2月27日
天皇は事態の収拾に手間取る陸軍の対応に苛立ち「自ら近衛師団を率て鎮圧に出動する」と言われ、陸軍首脳部を混乱させた。東京湾に到着した第一艦隊は全砲門を東京市街に向け決起部隊を威嚇。そんな中、安否不明だった岡田首相の生存の情報が伝えられた。事態は決起部隊にとって一層不利となった。
D事件後の経過
参加した各部隊(下士官兵)は大陸へと転属させられ、後に多くの戦死者を出す。3月4日から特別軍法会議が開かれたが、然したる審議も行われないままに結審。最終的に翌年8月19日までに関係者19名の死刑が執行された。青年将校彼らの行動を支持した皇道派将校たちは不問となったが、陸軍部内における勢力は衰え、逆に東条英機ら統制派が主導権を掌握、1937年(昭和12年)7月7日蘆溝橋事件が勃発し、日本は軍部主導によるファシズムの道を一直線に進んで行く・・・青年将校たちが目指した側近政治の打破、財閥の解体、農地解放が達成されるのは、太平洋戦争敗戦後のGHQ占領下であった・・・と言うのは歴史の皮肉である。
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