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(回答先: Mathematicsは「数の学」ではない:「数学」などという訳を作ったヤツが悪いんですね 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 7 月 25 日 05:04:01)
2005.07.25 Monday
「算数」と「数学」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=98410
まず、石原知事が、フランス人・フランス語を、数的な面で批判することは、御門違いであり、無教養(一般的な意味です。カルト的な趣向から見ると、教養は、無際限に深まりますので。)であること。つまり、日本の恥さらし、であること。
これを踏まえて、ODA ウォッチャーズも、「算数」と「数学」については、幼少の頃より、ずっと、考えてきたことがありますので、ここで、書いてみたいと思います。
「算数」と「数学」は、頭の使う部分が、ことなっているように、思います。
昔、バイトで、予備校で数学を教えていた頃、よく、「走りながら、弁当は喰えない」と、生徒に言っていました。数学的な解法の「読み」と、実際の「計算」は、時間的に分けて、違う仕事として、作業する必要が在る、ことを言っていました。勿論、人間の脳は、複雑で、無意識の世界では、計算中も、「解法」についての発想が出てきたり、沈思黙考中も、計算の間違いに気付いたりしますが、これも、ランニングの時に、水を補給する例と同じでしょう。
ODA ウォッチャーズは、小学校の「算数」、計算と「鶴亀算」「植木算」などには、興味が持てませんでした。「こうすれば、こうなる」と言う説明しか、してくれないからです。また、九九を覚えて、当てはめるのも、反復蛙飛び、と同じ印象で、つまらない、時間つぶし、としか思えません。チェルニーのようなもの、という肯定的評価はしていました。
ところが、文字による、抽象的な「計算」、これは、対称性、バランス、音楽と同じで、美的な構造です。
複素数や、素数論、ベクトルなどの概念は、一層、創造的な美しさを全面に出してきます。所謂、フラクタルという概念も、複素平面(立体)の数学的世界が、図形の意味を、表示してくれるのです。
人間の理解には、「了解的理解」と「実証的理解」の区別をするべきだと、どこかの政治学の基本書で、述べられていた、と思います。
「算数」の基本、ソロバン、の基本は、実証だけです。
ところが、「数学」は、「実証(自然界との適合性)」と「了解(納得、合理的理解、カントの純粋理性)」の、両方の理解を、融合することで、成立しています。
国民性に関しては、「『ものの見方について』/笠信太郎」という古典的なものがあります、ね。
但し、数学者は、「ソロバン」の素晴らしさを称えこそすれ、軽蔑などしない。フランス人のシラク氏も、相撲の素晴らしさを深く理解している。プーチン氏も、日本の伝統的武道の理解者と言われている。
素養とは、他者に対する、創造的な理解力(賛同とは異なる)、多様な認識能力、だと思います。石原氏は、日本人には売れる小説家でしょうが、それを持って、石原氏が、フランス語を云々し、さらに、フランス人の「数に関する能力」を云々する資格は無いし、都知事と言う地位を考え、それが、アジア各国のマスメデイアに載っていることを考えると、誠に、恥ずかしい、オゾマシイ、限りである。
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