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(回答先: 「ゆとり教育」は新自由主義の「民営化」【中曽根康弘を中心にした臨教審・ゆとり教育人脈の研究】 投稿者 ネオファイト 日時 2005 年 7 月 24 日 19:17:28)
What? Why? How?
ネオファイトさん、レスと資料・データご教示、ありがとうございます。
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>もっともああいった右翼の多くは日本人じゃないですけど
愛国主義者気取りには効く言葉なのかもしれませんが、それだけ言っちゃうと俗悪な朝鮮陰謀論になりかねないので、餌を撒きかねない発言はお気をつけ下さい。
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もちろん「それだけ」言うつもりでもありませんが、当然あの街宣車デモ隊を後ろでコントロールしている勢力がいるでしょう。さらに私が「文部官僚は某国スパイ」てなことをいうと、完全に陰謀論者にされてしまいそうです(もう十分にされてるか?)が、「ゆとり教育」の称揚が中曽根時代からスタート、と聞くと、ますますその感を強くしてしまいます。(もちろん見当違いの変な誤解を受けないように表現には気を配ることにします。)
戦争板とカルト板、時々ホロコースト板で手一杯の私には、教育論議にまで手を広げてしまうそれこそ「ゆとり」が無いのですが、たまたま私がこちらでいろんな国の実際の学校教育内容に触れていることもありまして、全く私の個人的感想のレベルでしかなく国の教育政策をうんぬんできるようなものではないのですが、少しだけ書いてみます。
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バルセロナには多くの害コック系企業の派遣社員たちが住んでいるため、地元のスペイン人用の学校のほかに、イギリス系、アメリカ系、ドイツ系、フランス系、イタリア系、日本系など、外国語をベースにした学校がいくつかあります。国によって学校教育制度も学校を社会との関係も異なりますが、各国の(私が実際にふれて知っているのは日本、イギリス、アメリカ、スペインだけですが)教育内容を比較してみると、そこから日本人が持っている「勉強」に対する態度が浮き彫りにされてくるようです。
日本の教育で奇妙だと思う点は、各教科の内容もレベルも文部科学省検定の教科書によって極端に統一されているにもかかわらず、中学・高校・大学の各入学試験はそれぞれの学校でバラバラに行うことです。これは上記の他の国では見られません。必然的に、教科書の内容やレベルをメドに勉強したのでは到底それぞれの入試には対応できないわけです。
このことは受験する個人にしても入試を実行する側にしても、大変な無駄を作ることになるでしょう。全国で1つの科目に付き、一体何種類の「入試問題」が準備され、受験する側にしても、一人で5校も6校も受験して、入学するのは結局一つです。言ってみればその人に必要な受験は一つしかないのです。
受験産業にとってはありがたいでしょうが、今の日本の制度は膨大な無駄のうえに成り立っているのではないか、と思います。ならばいっそのこと、教科書検定制度など止めてしまって、それぞれの中学校や高校で独自の目的と独自の方針を持って独自の教材を用い、生徒と親がそれを確かめて行きたい学校を選べばよいのではないか。これはもちろん暴論でしょうが、現状の方がもっとムチャクチャな気がします。
そのためかもしれません。日本人の学生はもっぱら「how=どうすれば答が出るのか」のみに意識を集中して、「what=これは何なのか」「why=なぜそうなるのか」に対する関心が余りにも少ないように感じます。入試への対応に忙しい受験生にとって「何か」「なぜか」に突っ込む余裕などないのかもしれません。
各国の入試制度を比較しますと、英国では全国をいくつかのブロックに分けて、それぞれで統一試験(16歳の段階でGCSE、18歳でGCE)を行います。どの試験もほとんどすべてが記述式で、文章により(数学などでもすべて途中の思考過程がチェックされ)そのwhatとwhyを、筋の通った文章と表現で説明させるものです。howも必要ですが、それはwhatとwhyがそろっておれば必然的にそろってくるものなのでしょう。スペインでも基本的に同様です。
米国のSAT(I・II)などの統一試験は、これはご存知の方も多いでしょうが、すべてマークシート方式で、やはり反射神経と暗記量がモノを言うようですが、ただ日本とは異なり、学校の成績も大学進学で相当に重視されるようです。また実際にその問題を見てみると、日ごろからwhatとwhyを徹底的に追究している者でないと、やはり高得点をとることは難しいでしょう。しかしやはり米国は欧州に比べると、howの比重が大きいでしょうね。
ただこれは入試制度だけの問題でもなさそうで、受験から遠い立場にいる小学生や中学生でさえも、日本人の子供には「何か」「なぜか」に対する関心が低いように思います。やはり学校で、特に小学校で、「何か」「なぜか」という関心を満足させるような教育内容になっていないのだろうと思います。
これには国民性というか歴史的に形成された人間集団の心理的な傾向も影響するのかも知れません。例えば一般的にもスペイン人は極端な「what派」で、「これは何だ」という好奇心だけややたらと高いのですが、「なぜ」については『まあいいや』と適当に打ち切り、「どのように」はまず考えません。『何とかなるさ』ということでしょう。(この点は少しでもスペインに住んだことのある人なら腹を抱えて同意されることでしょう。)米国人は「what」と「how」は好きでしょうが、何せ『動機の単純明快さ』が身上ですから「why」は突き詰めないでしょう。英国人は三つのバランスを上手にとるようです明快さや面白みにはやや欠けているように思います。(ただしこれらは私が個人的に知った程度の範囲で得られた感想ですが。)
そこへ行くと、日本人は極端な「how派」、スペイン人の対極を為すと思います。何か問題が起こっても「過去の姿は何であり、なぜ現在このようであり、将来のあるべき姿は何なのか」を徹底して明らかにすれば良いのでしょうが、「今どうするのか」にばかり気にする傾向があるように感じます。というか、「何」「なぜ」を明確にすることを、全員が無意識のうちに避けているのではないでしょうか。
私は、勉強の中で一番大切な要素はこの「what」「why」であり、それに続いて表現力ではないか、と考えます。(表現力の面では日本人はずいぶん損をしているように思います。)
ただ私は、「what(好奇心と観察力)」と「why(因果関係の把握と論理構成力)」と表現力を高めていくためには、小学生から上手に好奇心を引き出して論理的につなげて納得させてやるような教科内容と教え方と同時に、算数と文章の基礎訓練は絶対に必要だと感じます。これは理屈ぬきであり、たとえば基礎体力も無い者にサッカーの技術を教えてどうなるのか、ということです。
さらに日本の学校の最も悪い点はそれが「密室」であることです。「現場の教師に任せる」といえばカッコいいけど、早い話が無責任の寄せ集めでしかないでしょう。学校の教師に限らず、人間は一遍の理屈や理想などで動くものではありません。自分がやっていることにどんな欠陥がありなぜその欠陥が現れるのであり、そのうえでどのような解決方法があるのか、は、教室外の「他人」に自分のやっていることをぶつけてみる以外に知りようが無いのです。もちろん一つのイデオロギーによる管理強化につながってはなりませんが、学校の教室をオープンにしない限り「学校の怪談」が無くなることはないでしょう。
フィンランドの例にしても、国の文化基盤の違いから、幼稚園・小学校でのベースの部分の違い、現場の教師が持つ意識の違いを無視して、表面ツラだけをいじくってみても、ますます事態を混乱させ悪化させるだけでしょう。
まあ、以上に申し上げたことは、今つらつら思い浮かんだ個人的感想のレベルで、とてもこれを何らかの教育政策に反映させる、などといった立派なものではありませんが、もうあまり阿修羅誌上でこんなことを申し上げる機会も無いでしょうから、私の肉声を文章にしてみました。
御目を汚して、申し訳ありません。
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