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(回答先: あっしらさん、レス有難うございました。 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 7 月 20 日 07:31:04)
>ただちょっと腑に落ちないのは、そういった特性(=他の人たちとの協調活動に物足
>りなさやつまらなさを感じる)を持つ非水田稲作民が、わざわざしちめんどくさい
>“支配者側”に回るものでしょうか?
支配側になった海人系畑作派自身が水田稲作に移行したとは考えていません。
支配権力の基盤を強化するために、被支配側に水田稲作を拡大させたのではないでしょうか?(支配層は自ら農耕に従事するわけではありません)
水田稲作を嫌っていた人たちが水田稲作になじんでいったのは、生きるためであり、慣れが生じたためだと思います。
このような変化は、明治維新後の日本人の意識・生活の変化、直接経験してきた戦後日本の日本人の変化を考えれば、それほど不思議なことではないはずです。
>“海人系畑作派の価値観”とは、どんなものだったのでしょうか?
海人系畑作派の男たちは死ぬか生きるかの緊張感や見知らぬ土地をめぐる面白さに魅力を感じていたのではないでしょうか。(現代だったら、漁師・国際ビジネスマン・傭兵なんかの心理に類似的な面があるかもしれません)
女性たちは、半年や1年は戻ってこないこともある(戦闘や事故で永遠に戻ってこないこともある)男に代わって、畑を耕しながら家族や共同体(国家)の運営を仕切っていたはずですから、けっこう政治的な力があったと思っています。
(男が定住して組織的活動を指導したり組織的力仕事に従事する水田稲作派のほうが「男尊女卑」意識は生まれやすい。卑弥呼が王権についたのも海人系らしいなあと思っています)
日本列島で海人系勢力が政治権力に近づいたのは、平氏が最後だと思っています。
平氏滅亡後は、倭寇というかたちでの動きはあっても政治権力の掌握につながることもなく、それ以降の政治権力者(“騎馬系”の末裔らしい)も海人系を抑え込む政策を採ったようです。
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