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主流派日本史学者は自身の判断を含むこれまでの説明体系に囚われてしまって“史実”が見えなくなっている。
http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/348.html
投稿者 あっしら 日時 2005 年 7 月 20 日 14:43:45: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: あっしらさんも「九州王朝説」論者でいらっしゃったのですね。 投稿者 シジミ 日時 2005 年 7 月 19 日 23:22:45)


>「2世紀の政治権力以降過程」とは、「倭国大乱」後に邪馬台国(後に述べるように
>私は「九州王朝説」論者ですが、古田武彦氏が正しいとする「邪馬壹国」は使用せず、
>一般的な「邪馬台国」を使用しておきます)中心に政治的統一がなされる過程という
>ことでしょうか?


まず、「2世紀の政治権力以降過程」は「2世紀の政治権力移行過程」の誤りです。お詫びして訂正します。

倭及び日本の中央集権的政治統一は大宝律令(8世紀初頭)の施行をもってなされたと思っています。

それまでは、将軍ではなく大王自身がトップであるという違いはありますが、江戸時代の幕藩体制に近い地域連合的な政治統一だったはずです。もちろん、そうでありながらも、大王権力が徐々に政治的力を増大させていく歴史過程だったとも思っています。

律令制とそれ以前の政治構造の根底的な違いは、大王を含む政治的支配層のそれぞれがある領域の土地と庶民を直接的に支配していたのか、それとも、単一の政治機構が全領土を支配し支配層構成員はその機構内に位置することで俸禄を得る仕組みなのかにあると考えています。
(律令制は、かたちとして500年ほど続きましたが、内実は政治的支配層上位自らの手で蝕まれ支配層の弱体化が進んでいきました)


>また、「銅鐸族の東方への移動」とは、邪馬台国グループに敗北した勢力が東方に移
>動したという意味でしょうか?

銅鐸族の故地は奴国及びその周辺(北部九州:筑紫)だったと思っています。
邪馬台国連合に敗北した勢力で邪馬台国連合の軍門に降りたくなかった部分が東方に移動したのだろうと考えています。

銅剣銅矛圏と銅鐸圏という区分がなされていますが、銅剣銅矛を主たる武器として使用した勢力が東方に移動して現在銅鐸圏と呼ばれる生活様態を生み出したとみたほうがすっきりすると思っています。

甕棺葬制がまるである時期の日本列島全域で行われていたと錯誤されてしまうような説明がされていることもありますが、古代については河川・山岳・海などの自然条件で区分けされる地理的範囲で生き方や世界観が違う可能性が大いにあるという見方が重要です。
考古学は、地域と時間軸と現在とは比較にならないほど細かく分けて考察する必要があります。
甕棺墓は筑後川右岸(北側)から福岡平野で限定される葬制で、2世紀末には衰退ないし消滅しています。
(甕棺墓があったところが後漢書に書かれている倭奴国の領域に相当し、そこが銅鐸族の故地である可能性が高いと思っています)


>――  元々日本列島を対外的に代表する政権は九州を中心とするの「倭」国であり
>(古田氏はその王家を「九州王朝」と呼びます)、「大和政権」(古田氏は「近畿天
>皇家」という言葉を使いますが)はその分派であり、7世紀の「白村江の戦」後に
>「倭」の地を併せて権力を掌握した。(これが「日本」)

>この九州王朝説の概略に関しては、私も恐らくは正しいだろうと考えています。


「日本列島を対外的に代表する政権」というのは誤解されやすいので、「日本列島のなかで中国歴代王朝や朝鮮半島諸国と通交した政権」といったほうがいいでしょう。

古田氏に同意できないのは、「九州王朝」と併行してその分派である「近畿天皇家」があったという見方です。
日本書紀・中国史書・三国史記(朝鮮半島三国の歴史書)を読んでも、そのような二重支配構造や西日本に二つの上位政権があったという“匂い”はしません。

5世紀以降であれば、九州に根拠地があった政治権力が非直接ながら近畿地方をも支配していたと思っています。(九州の政治権力が倭人が生活していた朝鮮半島最南部を間接的に支配していたのと似た構造です)
そのような政治支配構造だったからこそ、「白村江の役」後に支配層が分裂・対立し内戦に陥ったとき、九州で破れた王権グループは瀬戸内海を東に進んでヤマトに“亡命政権”を建てて抵抗することができ、一方、新政権グループは旧政権グループを完全に屈服させるために「東征・東遷」をしなければならなかったのでしょう。
これが、皇祖・神武天皇の事績として書かれている“史実”は日本書紀が扱う最後期である7世紀後半の史実が投影されたものと言う所以です。
(明治維新のとき内戦の過程で京都から江戸に遷都があったことを思い浮かべてもらうと少しはわかりやすいかもしれません)

>ただ、九州王朝の痕跡を抹消した大和政権の手際が余りに見事であったため、九州王
>朝の存在を証明することは相当に困難だろうと思います。

日本書紀や中国史書を先入観なしで何度か通読すれば、倭国は7世紀末まで九州に政権所在地を置いていたとわかるはずです。
(日本書紀は造作やゴマカシの記述で満ちていますが、ある内容が造作やゴマカシであることを示唆する“謎解き”のヒントがけっこうな頻度で埋め込まれています)

また、「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国がどこにあったのかが今なお議論と関心の的になっていますが、「隋書倭国伝」は7世紀はじめの倭国を九州と“明記”(内容からの判断)していますから、倭国の政治権力中心地が4世紀以降7世紀初頭までのあいだに近畿(ヤマト)から九州に「西遷」した“史実”を提示できない限り「邪馬台国近畿説」は妥当性を持たないと言えます。

さらに、遺跡・遺構ということでは、大宰府をきちんと考証すれば7世紀後半まで九州に王権所在地があったことがわかります。
だからなんなのさですが、藤原京が日本最初の都城ではなく、大宰府が日本最初の都城です。(藤原京は大宰府とほぼ同規模の中国式都城です。藤原京もその可能性がありますが、大宰府は倭国の政治的混乱のために計画通りに完成しなかった未完の都城です)


大学を中心とする主流派日本史学者は、部分的には本居宣長を中心とする江戸時代の国学者の説明体系を含んでいますが、明治維新後に構築された説明体系(古代歴史観)で“過去の事実”を見るという傾向が強すぎるようです。
新しい事実が発見されても通説的説明体系の枠組みからそれらを説明し、新しい事実から通説的説明体系を疑うという思考営為をしなさ過ぎると思っています。

>「出雲」=銅器文化=水田稲作VS「天孫」=鉄器文化=海人畑作という対照には初め
>て接しました。「天孫」族を畑作の人々とする見方はやや奇異な感じもしますが、ス
>サノオによるオオゲツヒメ殺害により五穀が生じたという神話などは、水田稲作とい
>うよりも畑作の匂いが強いように思います。(その一方アマテラスには水田稲作の匂
>いが強く漂います。)
>ただそのスサノオも出雲のオオクニヌシの祖先神ということにされてしまいますが。


「出雲」=銅器文化=水田稲作VS「天孫」=鉄器文化=海人畑作という見解は、「まぼろしの邪馬台国」で有名な宮崎康平さんがその書籍のなかで40年も前に提示されています。
西暦紀元頃から4世紀頃までの日本列島西部古代史は、宮崎康平さんの考察がもっとも高い意義を持っていると思っています。
内容がすべて正しいかどうかは別として、邪馬台国連合を日本列島のある限定的な地域と論証した意義はとてつもなく高いのです。(それに較べれば、邪馬台国がどこにあったのかということなんか“へ”のようなものです:笑)

アマテラスは別名のオオヒルメこそが“本名”で、有明海・太陽・月の複合的“ご神体”だったんだろうと思っていますが、日本書紀では卑弥呼の神話バージョンとして登場しているようです。
(神功皇后は卑弥呼の歴史バージョンとして登場していることは間違いないでしょう。神功皇后は、卑弥呼ひとりではなく、邪馬台国連合時代の女性王権者が投影されたものと考えています)

卑弥呼がアマテラスなら、スサノオは、邪馬台国連合に対抗して“暴れた”狗奴国の王として魏志に登場する卑弥弓呼なのかもしれませんね。
(卑弥呼は「日の巫女」に通じるとも言われていますが、狗奴国の男王の名が卑弥弓呼であることを考えると勇み足の解釈ミスだと思われます。狗奴はクナですから、ス(クナ)ヒコとも関係があるのでしょう。鬼奴国も意味論的にはクナ(クィナ)ですから肥後はクナと縁が深い)

魏志倭人伝と日本書紀の神代紀を合わせて考えると、邪馬台国連合は狗奴国連合に敗北し、狗奴国連合が倭国の政治的主導権を握ったようです。(これが前回書いた4世紀の政権交替)
狗奴国は宮崎康平さんが比定したように熊本県中南部(葦北郡あたり)にあったと思っていますが、福岡の奴国と同じ奴の字を含む国なので、水田稲作が大きなウエイトを持っていた地域だったのでしょう。

「出雲風土記」にもまったく登場しないオオクニヌシは、出雲ではなく福岡県東部の遠賀川流域の水田稲作地帯ないしその周辺の支配者だったと思っています。(和名抄に筑前・席田郡に大国という郷名が出てきます:宗像もそれほど遠くないところにあります:クニは川(ク)+水田(ナの転訛であるニ):「出雲風土記」は同一人物とされるオオナムチが主役)

おそらく、肥後のスサノオ国と筑前東部のオオクニヌシ国を上位にいただく政治連合ができ、邪馬台国連合に勝利したのでしょう。(肥後のスサノオと遠賀川流域の女性が結婚して生まれたのが神話に登場するオオクニヌシの可能性もあると思っています)
海人系畑作(水田)派と水田稲作派の連合とも言える勢力への政権交替が、水田稲作派である瀬戸内海地域や近畿地方の「銅鐸族」が融和に応じるきっかけになったとみています。(瀬戸内海地域の高地性集落もこのころに消滅しているはずです)

例の「倭の五王」が邪馬台国連合に勝利した政治勢力そのものの後裔なのか内部で微妙な変移があったのか判断しにくいのですが、「倭の五王」時代の政治権力は筑後川流域を根拠地にしていたと思っています。
(3世紀以降は九州内部でも西から東に政権所在地が移動し、最後は「白村江の役」絡みで朝倉そして大宰府に移ったようです)

>>それ以前から「天孫族」が日本列島で生活圏としていた中心地は、肥の国(肥前・
>>肥後で現在の佐賀・長崎・熊本)だったと思っています

>そうした痕跡を肥の国のどこかに具体的に見出していらっしゃるのでしょうか?


魏志倭人伝や日本書紀(及び古事記)の記述内容がそう考える基礎です。

あれだけ文献考証に長けている古田氏が邪馬台国・「九州王朝」→博多湾岸説を唱えるように、日本書紀から有明海沿岸地域の“痕跡”が拭い取られていることは確かですが...

※ レスがございましたら、ご面倒ですが、雑談板のほうにでも新しくスレッドを立てていただければ幸いです。


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