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(回答先: ごくごく雑駁な政治権力移動史 投稿者 あっしら 日時 2005 年 7 月 19 日 04:20:01)
あっしらさん、レスありがとうございます。
>銅鐸族の東方への移動は2世紀の政治権力移行過程に伴って起きたと思っています。
「2世紀の政治権力以降過程」とは、「倭国大乱」後に邪馬台国(後に述べるように私は「九州王朝説」論者ですが、古田武彦氏が正しいとする「邪馬壹国」は使用せず、一般的な「邪馬台国」を使用しておきます)中心に政治的統一がなされる過程ということでしょうか?
また、「銅鐸族の東方への移動」とは、邪馬台国グループに敗北した勢力が東方に移動したという意味でしょうか?
>(藤原(新益)京の時代にかけてヤマトに政治権力の中心地が移ったのであり、難波朝や飛鳥朝といわれている政治権力の中心地は別の場所(九州)にあったはずです)
なんと、あっしらさんも「九州王朝説」論者でいらっしゃったのですね。驚きです。(改めて過去のあっしらさんの「阿修羅」投稿を検索してみますと、何度か「九州王朝説」に言及されておられることを知りました。)
私も、古田武彦氏の『盗まれた神話』を読んで以来、「九州王朝説」には強い関心を持ってきました。
―― 元々日本列島を対外的に代表する政権は九州を中心とするの「倭」国であり(古田氏はその王家を「九州王朝」と呼びます)、「大和政権」(古田氏は「近畿天皇家」という言葉を使いますが)はその分派であり、7世紀の「白村江の戦」後に「倭」の地を併せて権力を掌握した。(これが「日本」)
この九州王朝説の概略に関しては、私も恐らくは正しいだろうと考えています。ただ、九州王朝の痕跡を抹消した大和政権の手際が余りに見事であったため、九州王朝の存在を証明することは相当に困難だろうと思います。
また、古田氏の所説は多くの点で修正が必要だろうとも思います。
特に、古田氏は紀元前から単一の王朝たる九州王朝が7世紀末まで存続したように主張しますが、私は「倭」国内部で数度の政権交代があったと考えています。
>「出雲」は地理的な出雲(島根県)というより国つ神の象徴としてつくられた“概念”として、日本書紀では水田稲作・銅器文化政治集団の象徴として巧妙に使われていると思っています。ですから、出雲の「国譲り」は、2世紀に起きたと見ている水田稲作地域から海人畑作地域への政治権力の移行や4世紀頃に収束を見たと考えている「銅鐸族」の“降伏”を投影した説話なんだろうと推測しています。
「出雲」=銅器文化=水田稲作VS「天孫」=鉄器文化=海人畑作という対照には初めて接しました。「天孫」族を畑作の人々とする見方はやや奇異な感じもしますが、スサノオによるオオゲツヒメ殺害により五穀が生じたという神話などは、水田稲作というよりも畑作の匂いが強いように思います。(その一方アマテラスには水田稲作の匂いが強く漂います。)
ただそのスサノオも出雲のオオクニヌシの祖先神ということにされてしまいますが。
>それ以前から「天孫族」が日本列島で生活圏としていた中心地は、肥の国(肥前・肥後で現在の佐賀・長崎・熊本)だったと思っています
そうした痕跡を肥の国のどこかに具体的に見出していらっしゃるのでしょうか?
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