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(回答先: 呉の支配層は「銅鐸族」に連なる : はじめて聞く見解です。 投稿者 シジミ 日時 2005 年 7 月 18 日 21:03:30)
>「5度」というのは、水野祐説の「崇神」、「応神」、「継体」の三王朝交代説に加
>えて、それらに先行しての銅鐸族の時代、天孫族の時代を想定されているのでしょう
>か?
日本書紀に明示されている王名を使って王朝交替を説明することはできないと思っています。
日本書紀の歴史記述は8世紀の国家観をベースに再構築されたことで、史実の前後関係も入れ替わったりしていると思っているからです。
(最初の天皇である神武に関しては、日本書紀が扱う最後の時期の史実(7世紀後半)を投影した記述がなされていると思っているくらいですから(笑))
西暦で言えば、2世紀・3世紀末から4世紀初頭・6世紀前半・7世紀後半から末と4回の政治権力の移動があり、最低でも5つの王朝(政治権力掌握者)が出現したという見方をしています。
銅鐸族の東方への移動は2世紀の政治権力移行過程に伴って起きたと思っています。
いわゆる「天孫族」は、それ以降の日本書紀記述範囲全体に関わっていると受け止めています。(2回目以降の政治権力の移行は近い関係の支配層のあいだでなされてと思っています。最後(7世紀後半)の政治権力移行は複雑な様相を帯びたものであり、桓武朝の確立まではそれを引きずっていたと思っています)
いわゆるヤマト王権は、白村江の役の後の“長期間”の「壬申の乱」を経て7世紀末から8世紀初頭に確立したと思っています。(藤原(新益)京の時代にかけてヤマトに政治権力の中心地が移ったのであり、難波朝や飛鳥朝といわれている政治権力の中心地は別の場所(九州)にあったはずです)
>「神武天皇は呉の太伯の子孫」とする伝承が古くからあります。
>あっしらさんも同様の見解をお持ちなのだろうかと考えていたのですが、違いました
>ね。「銅鐸族」ということになれば、出雲系(近畿地方を含めた広域の「出雲」)と
>いうことになります。そうなると出雲に対して「国譲り」を迫り、「天孫降臨」した
>グループはどこからやって来たとお考えでしょうか?
「呉の太伯の子孫」というのは、漢の時代に中国との外交を担っていた上級官僚(大臣ないし王族クラス)が自称していたようですね。
「出雲」は地理的な出雲(島根県)というより国つ神の象徴としてつくられた“概念”として、日本書紀では水田稲作・銅器文化政治集団の象徴として巧妙に使われていると思っています。
ですから、出雲の「国譲り」は、2世紀に起きたと見ている水田稲作地域から海人畑作地域への政治権力の移行や4世紀頃に収束を見たと考えている「銅鐸族」の“降伏”を投影した説話なんだろうと推測しています。
(古代長江文明が銅器文化であったことを考えれば、実に高度な技術を要する銅鐸の鋳造もその流れとして理解できますし、4世紀頃から近畿地方中心に中国鏡の模造品(三角縁神獣鏡)や独創品が数多く造られたことも納得できます)
「天孫族」がいつ頃日本列島にやってきたのかそしてどこからやってきたのかはわかりませんが、日本書紀の記述から、西暦紀元後まで朝鮮半島南部で生活していた倭人(6世紀はじめ頃までは朝鮮半島最南部で倭人がけっこう生活していたと思っています)がその一翼を占めており、彼らが列島にやってきたのは1〜3世紀のあいだではないかとは思っています。それ以前から「天孫族」が日本列島で生活圏としていた中心地は、肥の国(肥前・肥後で現在の佐賀・長崎・熊本)だったと思っています。
(スサノオとスクナヒコに関する記述内容をイメージしてもらえればと思っています。“新羅王子”アメノヒボコはどのような人(集団)だったのかはっきりとはわかりませんがけっこう重要なポジションを占めていたと思っています。ツヌガアラシトも、非倭人として描かれている重要人物ですが、6世紀以降の人物かもしれないので除外しておきます)
>あっしらさんはAD4世紀を水田稲作の画期とお考えのようですから、時期的に言っ
>てこの天孫族が新たな稲作技術をもたらしたとお考えでしょうか?
「天孫族」は稲作技術そのものではなく水田稲作を拡大的に定着させる支えとなった鉄器文化をもたらしたと思っています。
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