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(回答先: Re: 水田稲作の開始と、呉の滅亡の時期が適合しない可能性があります。 投稿者 あっしら 日時 2005 年 7 月 18 日 14:33:07)
あっしらさん、レスありがとうございます。
>西暦紀元頃から現在に至るまでの日本列島の支配層はけっこうな頻度で入れ替わっていると思っています。「日本書紀」の記述範囲(弥生期から7世紀末まで)でも、最低でも5度は“王朝交替”があったはずです。
「5度」というのは、水野祐説の「崇神」、「応神」、「継体」の三王朝交代説に加えて、それらに先行しての銅鐸族の時代、天孫族の時代を想定されているのでしょうか?
>渡来してきた呉の支配層は「銅鐸族」に連なり、最終的には支配層の地位から転落したのではないかと思っています。
「神武天皇は呉の太伯の子孫」とする伝承が古くからあります。
あっしらさんも同様の見解をお持ちなのだろうかと考えていたのですが、違いましたね。「銅鐸族」ということになれば、出雲系(近畿地方を含めた広域の「出雲」)ということになります。そうなると出雲に対して「国譲り」を迫り、「天孫降臨」したグループはどこからやって来たとお考えでしょうか?
あっしらさんはAD4世紀を水田稲作の画期とお考えのようですから、時期的に言ってこの天孫族が新たな稲作技術をもたらしたとお考えでしょうか?
>あと、水軍や倭寇といった海洋系活動集団の歴史的変移にも興味を魅かれます。
私も、「宗像族」、「安曇族」、「安東水軍」、「松浦党」といった海洋系のグループや水軍に関心を持っており、今後調べて行きたいと思っています。
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