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(回答先: 水田稲作の開始と、呉の滅亡の時期が適合しない可能性があります。 投稿者 シジミ 日時 2005 年 7 月 18 日 10:41:44)
シジミさんどうもです。
>あっしらさんの御自説の「国際金融家=カルタゴ支配層ルーツ説」を思い出してしま
>いました。(もし、滅亡した呉の支配層が天皇家なりあるいは隠れた支配層として現
>在まで家系が続いているとお考えだとすれば、まさしくその「東アジア版」と呼んで
>いいのでしょうが、そこまでお考えですか?)
西暦紀元頃から現在に至るまでの日本列島の支配層はけっこうな頻度で入れ替わっていると思っています。
「日本書紀」の記述範囲(弥生期から7世紀末まで)でも、最低でも5度は“王朝交替”があったはずです。
※ 渡来してきた呉の支配層は「銅鐸族」に連なり、最終的には支配層の地位から転落したのではないかと思っています。
>ただこの御説は、時期の問題をクリアしなければならないと思います。呉の滅亡が
>BC.473年ですから、水田稲作開始時期をBC.5世紀とする従来説の場合は適合するの
>ですが、最近のAMS法による年代見直しによるBC.1000年頃の水田稲作開始説が正しい
>とすると、時期が合わなくなります。これだと周王朝の開始期に相当します。
>(http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/501.html参照)
>この年代見直しに関しては反論が提起されており、当分は論争が展開されると思いま
>すが。(http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/498.html参照)
BC10世紀などに水田稲作があったとしても不思議ではないと思っています。
しかし、水田稲作が定着し拡大していったのはBC5世紀以降(もっと言えば4世紀以降)と考えたほうがすっきりするのではないでしょうか。
日本は「稲作国家、瑞穂の国」という思い込みが水田稲作の遺構に大きな意味づけをしすぎているように思います。
限定的な水田稲作の遺構よりも、条里制など組織的な水田稲作がいつ頃から始まったのかというほうがより重要な考察ではないでしょうか。
>この「好みに合わなかった」人々に各種の職人が含まれると思います。これらの「職
>人」の伝統が現代に伝わり、日本の産業的成功に繋がったと考えていいのではないで
>しょうか。そうなるとこうした「職人」の心性も別の「日本人らしさ」と呼んでいい
>のではないかと思います。
ある特性をもって「日本人らしさ」としてしまうことは問題だと思っています。
「職人」のルーツは支配層の物質的欲求(軍事・祭祀・生活などのあらゆる面)を応えていく活動集団の形成にあると思っていますが、その後の歴史過程のなかでどのように変容しどのような心性や技能を内包するようになったのかは大いに興味があります。
土地に縛られず活動力のみで勝負する「職人」は、当然のように水田稲作民とは異なる心性を持つはずです。
あと、水軍や倭寇といった海洋系活動集団の歴史的変移にも興味を魅かれます。
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