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(回答先: 水田稲作は文明の発達なのか、それとも人々の生き方をつまらないものにした元凶なのか(笑) 投稿者 あっしら 日時 2005 年 7 月 18 日 04:20:47)
あっしらさん、レスありがとうございます。
>日本列島の最初の水田稲作は、中国江南地方からの渡来者が始めたのだろうと思っています。
たぶん、中国戦国時代に覇権を握りそうなところまで勢力を拡大した呉が滅亡したときに、その支配層と庶民のなにがしかが九州に渡来し、故地で行っていた水田稲作を始めたのではないかと..
あっしらさんの御自説の「国際金融家=カルタゴ支配層ルーツ説」を思い出してしまいました。(もし、滅亡した呉の支配層が天皇家なりあるいは隠れた支配層として現在まで家系が続いているとお考えだとすれば、まさしくその「東アジア版」と呼んでいいのでしょうが、そこまでお考えですか?)
ただこの御説は、時期の問題をクリアしなければならないと思います。呉の滅亡がBC.473年ですから、水田稲作開始時期をBC.5世紀とする従来説の場合は適合するのですが、最近のAMS法による年代見直しによるBC.1000年頃の水田稲作開始説が正しいとすると、時期が合わなくなります。これだと周王朝の開始期に相当します。(http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/501.html参照)
この年代見直しに関しては反論が提起されており、当分は論争が展開されると思いますが。(http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/498.html参照)
>日本列島で水田稲作が安定的に成果を得られるようになったのは、鉄製利器がスムーズに手に入るようになってこれまで水田化しにくかった場所に水田がつくれるようになってからだと思っています。
この鉄製利器の利用により水田稲作の技術的転換が図られ、それにより「水田稲作の収穫安定化が達成されるとともに政治的統合領域が拡大」し、「水田稲作のリスクは大きく軽減」したとする見解は大変興味深いものです。今後、列島古代史を考える際の参考にさせていただきたいと思います。
>それでも水田稲作を嫌う人たちが消えなかったのは、リスクを恐れたからではなく、水田稲作が規定する生活形態が“好み”に合わなかったからだと思っています。水田稲作を素直に受け容れる人の増加がある種の“日本人らしさ”を形成したのだと思っています。
この「好みに合わなかった」人々に各種の職人が含まれると思います。これらの「職人」の伝統が現代に伝わり、日本の産業的成功に繋がったと考えていいのではないでしょうか。そうなるとこうした「職人」の心性も別の「日本人らしさ」と呼んでいいのではないかと思います。
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