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(回答先: 鬼、たちのぼる憤怒 【読売新聞関西発】 投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 20 日 11:26:04)
【栃木県データー】
歴史
葛生町の洞窟から洪積世の人骨が発見されたことは、人類居住の古さを示している。
古代に栃木・群馬両県の大部分は、毛野国(けぬこく)とよばれ、この北東に那須国があった。
四世紀の二ろ毛野国は 上・下の二国に二分された。
当時の吉墳が多く残され、小川町の那須八幡塚から東日本にはまれな き鳳鏡が出土した。
新羅の帰化人が那須国 造の子孫の徳をたたえた碑が那須国造碑で、日本三古碑の一つである。その後那須国は毛野国に統合され、下毛野国は下野国(しもつけこく)と改称された。
律令時代に下野国には蝦夷地への官道が通じ、この沿線に国府(栃木市)、国分寺、尼寺(国分寺町)がおかれ、日本三戒壇の一つ薬師寺も建てられた。
薬師寺で修業した勝道上人は日光に四本竜寺(しほんりゅうじ)を建て日光の基礎を築いた。
このころ下野国では種々の織物が生産された。
平安初期に慈覚大師があらわれ、後期に藤原秀郷が平将門の乱を平定し、子孫は小山氏を称し、源義家について下野国にきた宗円は宇都宮氏を称し、宇都宮の基礎をきずいた。
また、国の北部に那須氏がおこった。
小山・宇都宮・那須の三氏は、中世の下野国に勢力を得ていた。
鎌倉時代に那須野原は幕府武士の狩猟場になり、天命(佐野市)の鋳物や、烏山の和紙が生産された。
南西部の足利に居を構えた土豪源姓足利義兼が作った居舘の後は、今の鑁阿寺(ばんなじ)である。
義兼六世の孫の足利尊氏は京にのぽって室町幕府をひらき、一四世紀中ごろに再興された足利学枚は、一五世紀前半に上杉憲実によって修造された。
室町時代後半には下野国の土着勢力の間にも内紛が多かった。
安上桃山時代に上着勢カは衰え、関ケ原の役後、徳川家康は宇都宮・壬生などに譜代大名を置き、とくに宇都宮を北関東の要地として重視し、また郡須氏の家臣を大名にして大田原一黒羽に置いた。
1610年(慶長一五)足尾銅山が開発され、また用水路の開削で稲作が進展し、畑作のタバコ・ユウガオ・アサの裁培も増大し、大谷石の採掘や葛生石灰の生産もおこなわれた。
1617年(元和三)徳川家康の霊が日光東照宮に移されると、日光街道や例幣使街遺が設置され、鬼怒川・渡良瀬川などに河川交通が開始された。
江戸後期には、北陸門徒の来住や、二宮尊徳の土木事業によって農村が復興し、尊徳の遺跡が桜町陣雇跡(二宮町)である。
また、足利機業は桐生機業から独立し、益子焼などの製造も開始された。
明治になり、廃藩置県(1871)で諸藩は県となり、1871年11月、栃木・宇都宮二県が置かれ、1873年宇都宮県は栃木県に統合され、七六年上野国三郡は群馬県に移管し、1984年県庁が栃木市から宇都宮市に移った。
那須野原が本格的に開発され、道路も改修された。1887年に今の東北本線が県を縦断し、日本最初といわれる水力発電がおこなわれた。
また、足尾銅山の発展とともに鉱毒が渡良瀬川に流入し、日本最初の産業公害問題が発生し、この解決のため田中正造らが努力した。
http://www.ucatv.ne.jp/~hpkenren/TOTIDATA.HTM
文献をひもとき、遠い昔に手をかざすとそれはそれは重く、永い歴史があります。そして今に脈
々と続いています。昭和24年(1949)頃、尖頭器、掻器、彫器、石核器、等が逃室遺跡から発掘
され、これが栃木県内で最初の無土器文化遺跡(先人たちが未だ土器を知らない時代)である
ことがわかりました。昭和38年(1963)に本格的な発掘が行われた結果、この遺跡は歴史上最も
古い無土器時代(1万年以上前)の遺跡であることが確かめられた。最も古い時代(約9、000年
前)から縄文時代の終わりまで途切れる事がなく続き、その集落の分布は南端の稲沢の那珂・
黒川合流地点内側から八溝の中腹におよび、また那須岳山麓の横沢、新那須、大沢を結ぶ線
に至り、その数約250箇所に及びます。約2,000年前(弥生時代)、文化が黒羽町まで伝わる
のに長い時間がかかったが、米作りと金属文化が伝えられた事により祖先たちの生活を革命的
に変化させた。
大和・奈良時代、那須は湯津上・小川辺りを中心とする一つの古代国家であった。当時、那須
国は日本初期国家の一構成国であり第12代景行天皇の頃、その長ともいうべき那須国造がお
かれた。第36代孝徳天皇の大化の改新により那須国は廃止され、隣国であった毛野国が上下
に二分された内の下毛の国−下野国となり黒羽町の地域は、改制で那須郡となる。文化では、
茶畑遺跡や堂平仏堂跡から古代朝鮮の百済様式の薬師如来と誕生釈迦像と二身區の仏像が
出土しており、古文献に度々見える百済や新羅から渡来人のあったことを物語り、また、唐木田
の地名伝説とも関連がある。これは当地方に仏教伝幡を物語り、それが真に古い時期であること
を証明している。また、正倉院文書の天平10年駿河正税帳(西暦738年)の中で、那須温泉は
保養地として記されている。
平安時代初期に書かれた「倭名類聚抄(和名抄)」によると那須郡には那須・大笥・熊田・方田
・山田・大野・茂武・三和・全倉・大井・石上・黒川の12郷があり、黒川は今の伊王野・睦家・沼
野井の一部辺りが中心で、それ以南の稲沢や以北の芦野・那須・黒磯の一部を含むものと推定
されている。
鎌倉時代、弓矢の倭人余一宗隆の兄三郎幹隆は芋淵氏(後の梁瀬氏)の祖となり、次の世代
に当たる(余一の甥)次郎資長は伊王野に、同五郎資家は稲沢に、同六郎資成は川田に分地
し、那須郡の北辺を固めた。芦野には地頭芦野氏が定着しており、後で郡の中部・南部にも一
族が分地して地盤を固めていた那須氏と縁組みして旗下に入り、郡内は馬頭辺が宇都宮氏の
所領である他は、那須一族の領地となっていた。鎌倉時代から南北朝にかけては下野国北条
郡那須荘に属した。建久4年には将軍源頼朝による那須野の狩りが大規模に行われ、また、封
建制度の初期の不安動揺のある時に八溝と那須岳を連ねる一線の周辺の軍事的・政治的意
義は重要であり、那須一族は奔走し知名度を高めた。那須一族は南北朝時代終始北朝の足利
氏に属し、遠征に加わり、また地域の経営・防備に任じ、次第に発展して宇都宮氏・小川氏と共
に、下野の三大勢力の一つとなった。那須氏一族の分家はこの時代の頃までには那須領内一
円に配置され、それらの内伊王野・芦野・稲沢・芋淵等の各家は本家と行動を共にした。
室町時代になると応仁の乱が起こり、益々分裂がすすみ、やがて下剋上の時代へと進み、下
那須に統一されるまでの100年間、那須の地も上・下に二分することとなった。この間地域の諸
氏は上那須家に所属して戦陣の間に往来し、また地域の発展にもに影響を与えた。那須と境を
接する宇都宮・佐竹・白川の諸氏やその一族、そしてそれらを応援する諸氏との抗争も続いた。
戦国時代になると、これらに対応するのに那須本家を盟主として、那須七騎(本家、大関、大田
原、福原、伊王野、芦野、千本)とよばれる一族集団を代表とする那須の力が結集し、その結果
那須一族の勢力は最盛期を迎えた。当然その羽 翼である伊王野、芦野、稲沢、芋淵氏の子孫
の梁瀬氏も力を発揮し、戦国から安土桃山時代へかけて最高の領有を示している。
慶長5年(西暦1600年)秋の関ヶ原の戦いにより天下の実権は徳川家康が統率し、江戸幕府
が幕くをあける。この時代、芦野は城下町として、また、新街道の宿場町として江戸時代の経済
の発展に伴って発達した交通の要所となり、幕末頃は宿屋の数、42軒に達するほど繁栄し、伊
王野方面は脇街道の宿場となる。寛永10年伊王野・稲沢等は天領(徳川直轄の地)となり、稲
沢はやがて黒羽領となり、黒羽町の大部分は黒羽領、中部以南に芦野領、伊王野は天領と、三
氏の領域として明治維新に及んだ。黒羽領は黒羽藩知事の所管となり廃藩置県まで続いた。
伊王野、稲沢等、徳川直轄の領は真岡県に、また芦野領は日光県の所属となった。その後、廃
藩置県により上記両県は合併して日光県になり黒羽藩は黒羽県になった。さらに従来の日光県
は他の5県と共に栃木県になり、黒羽県は他の4県と共に宇都宮県になった。
その後合併して栃木県となり今日におよんでいる。
http://www.cbs.ne.jp/b4.roman.htm
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