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(回答先: 鳥肌が立ちました。 投稿者 デラシネ 日時 2005 年 7 月 18 日 06:10:59)
デラシネさん、どうもです。
>ところでここでひとつ、あっしらさんにお伺いしたいのですが、当時の人々も(といっ
>ても、長い長い縄文の時代を生きた人々を総括して“当時の人々”と規定するのも無
>茶ですが)、我々が意味するところの「ろまん」というものを抱いていたとお考えで
>しょうか。
人は面白いことや楽しいことをしたいという欲求をベースにもって生きていく動物だと思っています。
(他の動物も同じでしょう。ある時期以降の支配者はそうじゃないのが人間なんだと“洗脳”し、“本能”の発現を抑え込んでいる状況を正当化してきました)
生存条件が脅かされる状況のときは面白いとか楽しいといったことは追いやられるのは当然ですが、そうでない限り、変化に富んだ生活や緊張感や達成感でワクワクできる生き方を望む人の割合がけっこう高いと考えています。
このような意味で「ろまん」を抱いていたというより、現在よりも「ろまん」を充足させていた人の割合が高かったのではないかと推測しています。
そのような生活をおくっていた人たちは、稲作が強いる定型的作業の繰り返しや他の人たちとの協調的活動には物足らなさやつまらなさを感じたに違いないと思っています。
日本列島である領域で水田稲作が始まったとき、その様子を傍から眺めていた非水田稲作民のなかに、「稲は実入りがよく米は旨いけど、あんな生活をしなきゃあならんのなら願い下げだぜ」と思った人はけっこういるのではないでしょうか。
>あっしらさんのご想像を前提として考えると、こうして“海洋に乗り出していった
>人々”というのは、あっしらさんの仰るところの“水田稲作が規定する生活形態が
>“好みに合わなかった類の人々”なのではないかと推測してしまうのです。
>もちろん二者択一的に、彼らが“大洋に乗り出していくほうを選択した”と考えるの
>は時系列的にも無理がありますが、当時において“そういった行動を選択した”人々
>がいたことは間違いありません。
詳しく述べる機会は別にさせていただきますが、日本書紀などで書かれている「天つ神」と「国つ神」の対立は、海人系畑作派と水田稲作派の対立を物語(神話)的に表現したものだと思っています。
(「国つ神」を土着系「天つ神」を渡来系と解釈し、その対立とみるのは一部当たっているところがあるとしても根底的には誤りなんだろうと思っています)
日本列島の古代政治史は天津神優位で書かれていますから、その期間に水田稲作が広まったにも関わらず、支配層は海人系畑作派の価値観を持っていたのだろうと考えています。
(たぶん7世紀後半まではそうで、江上氏の騎馬民族征服説の前提の一つである「日本は稲作農耕民族だから侵攻した騎馬系に対抗できなかった」という見方は思い込みでしかないと思っています。海人系民は“海洋の騎馬族”であり機動力や精神面を含めた戦闘力に長じています)
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