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(回答先: 水田稲作は文明の発達なのか、それとも人々の生き方をつまらないものにした元凶なのか(笑) 投稿者 あっしら 日時 2005 年 7 月 18 日 04:20:47)
>それでも水田稲作を嫌う人たちが消えなかったのは、リスクを恐れたからではなく、水田稲作が規定する生活形態が“好み”に合わなかったからだと思っています。
>水田稲作を素直に受け容れる人の増加がある種の“日本人らしさ”を形成したのだと思っています(笑:水田稲作をこなした人は近代産業労働もこなせるようになるはずです)
>水田稲作や都市を進歩だとか文明の発達と考えるだけではなく、それらは人々の生き方をつまらないものにした元凶かもしれないと考えるのも悪くないと思っています(笑)
>そのような視点の思考から、今とは違う別の生活形態・国家社会構造が浮かび上がってくる可能性もあるでしょう。
やはりあっしらさんは、タダモノではないですね。(汗)
小生も、「今、こうある」日本人や日本社会の有様や特質というものが、「過去において選択されたもの」と考えておりました。
ただ、その選択の源流が「水田稲作を素直に受け容れる人の増加にある」といったような“思考の深度”を持ちあわせておりませんでした。
脱帽です。
ところでここでひとつ、あっしらさんにお伺いしたいのですが、当時の人々も(といっても、長い長い縄文の時代を生きた人々を総括して“当時の人々”と規定するのも無茶ですが)、我々が意味するところの「ろまん」というものを抱いていたとお考えでしょうか。
エクアドルにおいて縄文土器とそっくりなものが発掘されたという話は有名ですが、
http://www.ntv.co.jp/FERC/research/19990207/f1830.html
あっしらさんのご想像を前提として考えると、こうして“海洋に乗り出していった人々”というのは、あっしらさんの仰るところの“水田稲作が規定する生活形態が“好みに合わなかった類の人々”なのではないかと推測してしまうのです。
もちろん二者択一的に、彼らが“大洋に乗り出していくほうを選択した”と考えるのは時系列的にも無理がありますが、当時において“そういった行動を選択した”人々がいたことは間違いありません。
小生は、あっしらさんが示唆されたような“今とは違う別の生活形態・国家社会構造”の可能性の萌芽というものは、あの当時から既にあったのではないかと思っているのです。
小生は、こうして大洋を渡っていった縄文人であるとか、極寒のベーリング海峡を渡って移動していったユーラシア人を“そういった行動に駆り立てていった情動の源”とは何であったのかということに、とても関心があるのです。
彼らの“生存本能がそうさせた”というのでは、あまりにも安易すぎるような気がするのです。
お時間があるときで結構ですから、あっしらさんのお考えをお聞かせいただけたら幸甚です。
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