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(回答先: 縄文中期に稲作の「印」、土器にもみ圧痕 熊本大矢遺跡(朝日新聞) ― 熱帯ジャポニカ? 投稿者 シジミ 日時 2005 年 7 月 17 日 09:38:51)
米作りが日本列島での生活様態を歴史的に強く規定してきたことは間違いない。
稲作は縄文時代から行われていただろう考えているが、それは直播き陸稲であって、現在イメージする水田稲作とは意味が異なるものだったと思っている。米の収穫が生存維持活動にとって大きなウエイトを持っていたわけではなく、豆・雑穀・根菜などと同等の栽培植物の一つでしかなく、食生活のバラエティーを豊かにするものといった位置付けだったと思う。
植物としての稲は南方渡来だと考えているが、水田稲作はそれよりも遅れてたぶん中国・江南地方(長江を中心にその南北、上海あたり)から持ち込まれ定着した(定着させられた)ように思われる。
稲作の朝鮮半島からの伝来説もあるが、熱帯性植物である稲が日本列島より先に朝鮮半島で栽培されるようになったとは考えにくい。(日本列島から朝鮮半島への伝来もありうる)
もちろん、水田稲作という農耕システムが朝鮮半島経由で日本列島に入ってきた可能性は全否定できないが、そうであってもわずかなズレでしかなかったと思われる。
水田稲作を江南地方からの伝来だとすれば、日本列島西部と朝鮮半島南部にほぼ同時期に水田稲作が持ち込まれたと考えたほうが自然だろう。
水田稲作は、選び取ったというより強いられたというかたちで日本列島に定着していったと推測している。
水田稲作は、収穫量の効率性(倍率)は高くとも、水利系を含めた水田造りとして産業的農業と言ってもいいほど手間隙と労力をかけなければならないものである。
水田稲作を行わなくても生活ができていた人々が、一つの食糧品目を生産するために活動力の過半を注ぎ込まなければならない道を主体的に選択したとは思えないのである。
稲作によって人々は食糧獲得の不安定さから脱することができたという見方も示されているが、膨大な手間隙をかけて育てた稲が一発の洪水でお釈迦になるリスクを考えれば、それが嘘っぱちであることがわかる。
単一品目・単一場所に生存維持品目獲得を依存するほうがリスキーなのである。
自然任せのウエイトが高い直播き陸稲段階であれば、日照りや害虫でお釈迦になっても、「今年は米を食う楽しみがなくなった」で済む。
(水田稲作を広範囲に行えばリスクは緩和できるし、稲作がもたらす収穫の豊穣が日本列島の人口増加に寄与したことも事実である。もちろん、人口増加はさらに“食糧不安”を強めたり洪水の頻度を高める環境変化をもたらす可能性もあるのだが..)
また、日本は水田稲作文化と言われているが、それが支配層の政治基盤であったとしても、戦後すぐまで膨大な面積で焼畑農耕が続いており、水田稲作=日本文化という捉え方は一面的なもの=神話でしかない。
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