★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ40 > 304.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
大矢遺跡から出土した縄文中期の土器に付いていた、稲もみ圧痕の電子顕微鏡写真
http://www.asahi.com/culture/update/0717/001.html
縄文時代中期(約5000〜4000年前)の土器に、当時の稲作の存在を示す稲もみの圧痕(あっこん)(スタンプ)が付いていたことが、福岡市教委文化財部長で考古学者の山崎純男さんらの調べでわかった。熊本県本渡市の大矢遺跡から出土していたもので、全国最古の圧痕資料となる。これまでは岡山県の南溝手(みなみみぞて)遺跡などの縄文後期(約4000〜3000年前)の資料が最も古かった。考古学界で論争になっている「縄文農耕論」に大きな影響を与えそうだ。
これまで、各地の縄文時代の地層からイネ科植物のガラス質細胞(プラントオパール)などが見つかり、縄文農耕の存在が認められるようになった。ただ、微小なプラントオパールは後世の紛れ込みも否定できず、学界では慎重論もある。
一方、稲もみの圧痕は土器の製作時に付くため、時期を特定できる。また、稲は日本列島になかった外来種であることから、土器に付いた圧痕は稲作の有無を示す信頼性の高い資料とされている。
山崎部長は福岡や熊本など九州各県の縄文土器を調査。そのうち、熊本県の大矢遺跡で十数年前に出土した土器群の表面を肉眼観察や電子顕微鏡で調べたところ、稲もみの圧痕が、阿高式と呼ばれる中期後半の土器に1点、続く南福寺式と呼ばれる後期初頭の土器に1点、それぞれ見つかった。また、後・晩期の10遺跡の土器から雑穀や豆類の圧痕も約30点見つかった。
水田稲作は弥生時代に朝鮮半島から伝わった。しかし近年、縄文時代に陸稲を含む原始的な雑穀農耕が認められ始めており、農耕文化がどこまでさかのぼるかが焦点となっている。
山崎部長は「少なくとも縄文中期には稲作があったことが確実になった。当時、交流があったことが知られている朝鮮半島から、他の雑穀とともに一緒に流入したのだろう。木を切り倒す伐採具も同時に出土しており、焼き畑だったのではないか」と話している。
★上記の山崎部長発言は「朝鮮半島からの流入説」だが、その根拠は何なのか?
下記投稿記事「日本のコメは南方渡来!?」
http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/296.htmlによると都城市内の炭化米のDNA分析により平安時代中期までは「熱帯ジャポニカ」と「温帯ジャポニカ」が混在していたことが明らかになったという。このうち「温帯ジャポニカ」については朝鮮半島からの流入と考えてもよいが、これに対して「熱帯ジャポニカ」は中国江南地方からの流入(ODAウォッチャーズさんのレスhttp://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/300.html中の河姆渡遺跡からも熱帯ジャポニカ米が出土している。)、更にはフィリピン・台湾等から南西諸島を経由した流入ルート(柳田国男の所謂「海上の道」)をも考えるべきだろう。(シジミ)
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ40掲示板