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(回答先: 【歴史記録】武士道が台湾で威を振るう【台湾】 投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 6 月 16 日 00:48:42)
http://www.doujidaisya.co.jp/ot.html
沖縄の地元紙の「琉球新報」は、今年(1994)の1月13日付の記事で、沖縄県立図書館の所蔵資料の整理中に「征清録』が百年ぶりに「発見」されたことを報じた。
「征清録」は、日清戦争開戦から四ケ月後の一八九四年(明治二十七)十二月に発行された。当時の沖縄県知事、奈良原繁が総裁になり、県立師範学校長の児玉喜八が会長を務めた沖縄県私立教育会が発行していた「教育会雑誌」二十五号の付録として刊行された。
「征清録」の刊行は、皇民化教育の推進と日清戦争の決戦態勢を固めるのが目的であった。内容は、開戦の詔勅に始り、日清戦争の戦端、軍人、一般国民に関する戦争美談等が綴られていた。日清戦争時は、沖縄地方が近代目本国家に統合・編入されてから十数年が経っていた。沖縄人の「日本人化」は、学校教育を軸に伸展していたが、日清戦争で日本が勝利をおさめると、この状況はさらに拍車がかかった。「親清派」を任じていた人々も抵抗をやめ、「清国頼りにならず」と、「大和」の体制に身をすり寄せていったのである。
沖縄人にとって日清戦争は、「日本人化」、「皇民化」の受容を加速させるものになり、国家主義の体制を確立していく決定的な契機になると同時に、戦後の台湾植民地の獲得は、沖縄(人)が植民地支配の人的供給源、南門の砲台となって中国・アジア侵略に加担する「加害者」の役割をも演じるようになるものであった。
かつて五百年余にわたって中国(明・清)の冊封体制の中で、信頼・友情・平和を基調とする小国の論理を築き上げ、立国の基盤をすえていた守札之民の、なれの果てともいうべき現実がそこにあった。
「幻の書」といわれた「征清録」が、日清戦争から百年目を迎えるこの年に、莫大な資料群の中から目の日を見たのは、奇しき因縁というべきものである。私には「征清録」は、日本人が生き抜いたこの百年の近現代の歴史認識を検証すべきものとして、登場したように思えてならないのである。
日清戦争の時の大本営は、最終局面で台湾本島の西南海上の彰湖列島を占領する。講和を有利に導くことと、南進の拠点化を目指すものであった。今の澎湖島には、裏正角の日本軍の上陸地に建てられていた「明治二十八年混成技陵上陸記念碑」もなく、千人余の戦死・病死者を祀った「千人塚」と呼ばれた「陸軍墓地」も徹底的に破壊されてしまい、一かけらの遺骨も拾うことは出来なくなっている。日清戦争の重要部分であった台湾占領戦争は、天皇の親兵である北白川宮能久親王を師団長とする近衛師団が中核となっていた。この「親兵軍」の無差別虐殺、略奪、強姦、暴行の実態は、日清戦争の戦場であった台湾の地を踏査していると、これまで知られていなかった新事実に驚愕させられることが多く、調査、研究は差し迫った今後の課題である。(近代台湾沖縄関係史)