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【注:「武士道」という言葉について異論をもつがそのまま転載します。】
『台湾総督府警察沿革誌』等の資料によれば、日本は台湾占領後の数年間に、少なくとも以下の数件の大虐殺を行っている。これは日本の武士道の台湾での発威というべきである。
一.大??の大放火、殺人 1895年、馬関条約[下関条約]後、日本軍は台湾に上陸した。台北と新竹の間の大??渓沿岸の地区には猛者汪国輝、三角湧樟脳製造業者蘇力、樹林地主王振輝らがいて、それぞれ「住民自警団」を率いて自衛していた。7月12日、日本軍がこの地区に進軍すると、汪らは抵抗した。7月16日以後、日本軍の援軍が到着して、虐殺を繰り広げた。日本軍は大??以東、三角湧までの間のすべての村を抗日義軍とみなし、大??街を放火するよう命令を下した。かくして、4万人前後の繁華街は、7月22日から連続して3日間、遥か三角湧街にまで延焼し、20数里絶え間なく、あたり一面、寒々とした焦土へと変わり、焼失した住宅は合計1500戸余、死傷者は260人だった。抗日のリーダー汪国輝は日本軍に武士道のやり方で斬殺された[13]。
二.大?林の婦女暴行 1895年8月30日、日本軍は雲林地方に入り、9月2日大?林、すなわち今の嘉義県大林鎮に到達した。この地のリーダー簡精華は装備戦力が日本軍の相手にならないことをよく知っており、人びとが塗炭の苦しみをなめるのが忍びなかったので抵抗を放棄し、住民に道路を清掃し、食物を提供して日本軍を歓迎するよう命令した。ところが、予期に反して日本軍は簡に200人の女性を差し出すよう要求した。簡が応じなかったところ、日本軍は簡氏一族の女性60人余を強姦、殺害した。簡氏は激怒し、雲林の民衆を招集し、9月3日から弓矢、棍棒、落とし穴、自作の銃で日本軍を襲撃した。その後、簡精華は辜顕栄の誘いを受け、苦痛を忍んで帰順を受け入れたが、1ヶ月経たないうちに、自ら左手の血管を切り、自宅で失血死した。地元の人びとはその忠義に感動し、「簡忠義」として偲んだ[14]。
三.蕭壟街の惨殺 1895年10月10日、日本軍混成第四旅団が布袋嘴(嘉義地方)に上陸すると、当地の義軍のリーダー林崑岡は決死隊の勢いで郷里を守った。しかし、武器が粗悪で相手にならず、蕭壟街(今の台南県佳里鎮)まで退いた。そこで、日本軍は大がかりな捜索を行い、千人近い村民が渓谷のそばの雑木林の天然の溝や谷に隠れたが、嬰児の泣き声で発見されてしまった。日本軍は兵を派遣して長い坑の頭尾両端を遮断し、坑内に向けて一斉に20分近く激しく銃撃した。凄まじい叫び声と泣き声はこの世の地獄のようで、坑に避難した台湾人は一人として災いを逃れられず、嬰児、女性も一人として生き残らなかった。真に残酷さの極みであった[15]。
四.雲林大虐殺 台湾中部の雲林地方に「大坪頂」と呼ばれる山地があり、三面は渓谷に囲まれ、東南は険しい山地につながり、地勢は険しく、柯鉄率いる柯氏家族が住んでいた。日本軍が北から南下した際に、簡義ら抗日分子が続々と風雨を避けてこの地に来た。1896年4月1日、雲林県地方は台中県に併合され、雲林支庁が斗六に設けられた。6月10日、日本軍混成第二旅団の守備隊が雲林地方に進駐を開始した。当時大坪頂には抗日分子千余名が集結しており、決死の覚悟で抗日を誓い、大坪頂を「鉄国山」と改名し、全島に檄文を発し、日本人を台湾から駆逐するよう呼びかけた。6月16日、日本軍の一連隊が斗六に進入すると、「鉄国山」の抗日軍はその鋭鋒を避け、深山に退いた。それから6月22日に至るまで、日本軍は雲林地方で血なまぐさい虐殺を行い、全部で4295戸の民家が焼かれ、六千人の民衆が惨殺された[16]。日本軍を歓迎した約50人の順民までもが殺された。
当時の台湾高等法院院長高野孟矩は雲林大虐殺事件について次のように証言している。「漫然兵隊ヲ出シテ六日間ヲ費シ七十余庄ノ民屋ヲ焼キ良匪判然タラサル民人三百余人ヲ殺害シ附近ノ民人ヲ激セシメタルハ全ク今般暴動蜂起ノ基因ト認メラル故ニ土匪何百人又何千人ト唱フルモノ其実際ヲ精査スレバ多クハ良民ノ父ヲ殺サレ母ヲ奪レ兄ヲ害セラレ又子ヲ殺サレ妻ヲ殺サレ弟ヲ害セラレタル其恨ニ激シ又家屋及所蔵ノ財産悉皆ヲ焼尽サレ身ヲ寄スル処ナク彼等ノ群中ニ投シタルモノ実ニ十中七ハニ位シ真ニ強盗トシテ兇悪ヲ極ムル輩ハ十中二三ニ過キサル。」[17]
1896年7月4日香港の英字紙『Daily Press』が日本軍の6月16日から6月22日までの雲林大虐殺事件を明らかにしたことにより[18]、日本軍が台湾民衆を虐殺した事実が国際的な関心を引き起こした[19]。日本政府はしばしば関係部局に、香港の新聞の土匪に関する報道を取り消すよう訓令し、また拓殖務次官に外事新聞[20]に(作り上げた)事実を掲載するようにし、外国の新聞ではこのことを隠蔽するようにした。しかし、雲林大虐殺を契機として、台湾各地では連鎖的に日本の統治に対する不満が爆発し、各地で抗日運動が起こった。国際世論の圧力の下で、第二代の台湾総督桂太郎が退任を余儀なくされた。皮肉なことに、就任した第三代の総督乃木希典は甲午戦争[日清戦争]の旅順大虐殺で責任を負うべき旅団長だったのである。
五.阿公店大虐殺 第四代台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平は「台湾近代化」の生みの親で、彼らは台湾に「懐柔政策」を実行した「能吏」だ、と讃えるものがいるが、彼らにはもつれた麻を切るごとく人を切る日本の武士道の本性があり、大虐殺によって抗日台湾人を鎮圧して台湾統治の基礎を確立したことを見落としている。児玉は1898年に台湾総督に就任、11月12日からの、台湾中南部の抗日軍に対する、日本人が「大討伐」と呼んだ大規模攻撃の展開を決定した。この「大討伐」は台南県知事が台湾総督に提出した報告によれば、殺害した人数は2053人に達し、負傷者は数え切れない。焼かれた民家数は、全焼が2783戸、半焼が3030戸だった。家屋の全焼、半焼、家財の焼失などの損害は、当時の貨幣価値で3万8千円余に達した。[21]中でも被害がもっとも残酷だった阿公店地方には、安平、打狗(高雄)に住む外国人がおり、日本軍の残虐暴力に議論が沸きおこり、イギリス長老教会牧師ファーガソン(Duncan Ferguson)等は『香港日報』(Daily News)に投書し、日本軍の人間性を喪失した大虐殺の人道問題を提起して、国際世論の非難を巻き起こした[22]。
六.帰順式場に誘き出しての惨殺事件 児玉と後藤の台湾中南部の抗日勢力への対応は、軍警の大規模な「討伐」以外に、投降を呼びかけ、誘き寄せて殺す策略を使った。これがいわゆる「土匪招降帰順政策」であり、画策者は児玉長官、立案参与者は後藤民政長官、総督府事務官阿川光祐、策士は白井新太郎で[23]、中でも雲林の騙し討ちが抗日軍でもっとも人を驚かせる事件だった。1902年、斗六庁長・荒賀直順は警務課長・岩元知と投降を呼びかけて殺戮する計画を密かに画策した[24]。
5月14日、斗六庁長・荒賀と当地の守備隊長、憲兵分隊長は5月25日に帰順式を開いて騙し討ちすることを画策した。5月18日、岩元警務課長は林?埔、?頭?、土庫、他里霧、下湖口の5人の支庁長を招集し、帰順式典を行う真意と段取りを指示し、斗六、林?埔、?頭?、西螺、他里霧、内林の6ヶ所を式場とすることを決定、各市庁長に十分な準備をするよう命じた[25]。
帰順の意思を示した抗日の各リーダーに対しても、表面的には甘言を弄し、彼らの帰順を許したが、内心では徹底的な殲滅を企てていたので、張大猷以下265人の抗日分子をこの年の5月25日に誘い出すことを決め、6ヶ所でそれぞれ帰順式を行うと公言した。すなわち、一.斗六式場60余人、二.林?埔式場63人、三.?頭?式場38人、四.西螺式場30人、五.他里霧式場24人、六.林内式場39人である。その後、機関銃で6ヶ所同時にすべて殺戮した[26]。このような投降を誘い、騙して殺戮した事件に関して、日本人は口実を設け、5月25日、帰順式場での妄動により、一斉に殺戮したと説明しただけであり、騙して殺した事実を隠蔽した。
七.??<口+年>大虐殺 1915年余清芳が台南の西来庵「食菜堂」を中心として抗日運動を推進、展開していた頃、日本軍警は誘き出して殺す計略を使って、台南??<口+年>(玉井)付近の後?、竹圍、番仔?、新化、内庄、左鎮、茶寮等二十余村落住民3200余人を、老幼を分けず、次々に殺戮した[27]。日本人はこのような世にも悲惨な大殺人に対して隠蔽の限りを尽くした。たとえば、秋澤次郎が著した『台湾匪誌』は「匪賊の暴動」と「聖恩が洪大で果てしない」ことを饒舌に叙述している以外に、前述の騙し討ちの事実を示していない。しかし、その文中には騙し討ちのかすかな手がかりを覗き見ることができる。たとえば、文中で「斯くて残匪の誘出終るや総督府に於ては、彼等の中で罪状最も重く大正四年十一月の大赦の恩典に浴する能はざる者は假令投降したとはいえ、国法を抂げて刑を全免するが如きは国家の威信を傷くるものであるから、夫等の者に対しては厳粛なる処刑の必要を認めたのである。」[28]と書いており、抗日リーダー江定らはこのように投降を呼びかけられて処刑されたのである。
後藤新平は『日本植民政策一斑』で彼が台湾を統治していた五年間に法にもとづいて「殺戮した匪徒の数」は11950人に達した[29]と公然と述べている。日本のいわゆる「匪徒」とは、いうまでもなく、すべて「抗日」の台湾人のことだった。
台北市文献委員会副主任委員・王国?編著『台湾抗日史』によると、「台湾が日本人の手に落ちて五十と一年になろうとしているが……わが同胞で虐殺に遭った総数は約40万人近く、焼かれた家屋は乙未年(1895年)内だけでも三千余に達し、婦女の淫虐、壮丁の奴役にいたっては、その精神上の損失はさらにはかりがたい[30]。」
現在、日本の右翼分子はしばしば日本の五十年の台湾植民地統治の成功を「近代化」と称賛し、多くの台湾の学者も追随して台湾の「植民地化」は「近代化」であるといっている。もし台湾の日本への割譲後、日本の武士道が台湾で威を振るい、台湾ではじめて「近代化」の成果があったのであれば、台湾人は腰抜けで、台湾人自身には「近代化」の能力がない、というに等しいのではなかろうか。